ビギナー 日記


2001年09月
この 「ビギナーときたま日記」は、MACを買って5ヶ月経過したのをキッカケに始めました。 最近巡回しているURLは、ほとんどMAC系のサイトです。MAC系サイトの日記が滅多やたらと楽しいので 真似をしたくなりました。

バックンンバー1999版2000版

2001年9月24日(月)三連休は、ビデオ三昧 

三日間寝てました。
無性に腹が立つときがありました。
自分の体力は、ありますが精神的に疲労しています。
彼女も同じく、最近私に噛み付きます。

彼女の我侭には、頭に来ます。午後10時に電話したときには、離婚も考えて 置いて下さいと御願いしました。場合によっては、結婚式を中止して 離婚処理をするのも選択子に入れました。

9月23日(日)彼女が来た 

「お互い疲れているから来るな」と朝には、連絡したのに来た。
案の定口喧嘩です。
肉体的には、疲れは有りませんが。精神的には疲れているのです。
電話でも喧嘩です。「もう電話してくるな」と言ってしまった。

彼女が来たのは、食器棚の受け取りのためです。先週私が、「食器棚は持ってくるな」と 運送業者に対して切れたからです。
彼女も私も神経的には、疲れています。
だから結婚式のことを連絡したのは、友人三名だけです。
その他の人(元の職場、関係方面)には、祝電もご遠慮申し上げています。連絡を一切していません。
前回の結婚式は、両家の家族、招待者で100名でした。今回は、多くても25名までです。
こんなに準備に疲れる結婚式は、したくないです。

9月20日(木)籍を入れに行った 

婚姻届です。
彼女と私は、夫婦になりました。
紙の上だけすから実感は、無いです。
戸籍謄本4通、住民票8通を貰って市役所から帰りました。

国民健康保険は、彼女が扶養者となる証明が必要なため処置は後日となります。
証明書は、会社での健康保険証書に扶養者の登録が済んでから来てくださいとのこと。

ついでにパスポートの申請用紙を旅券事務所(三重県庁松阪庁舎2F)に貰いに結うました。
場所は、自宅から直線距離300mにありました。チョット近すぎと思うほど近いです。
ついでに警察へは、本籍地変更の手続きをしました。
奈良の本籍地は、イヤな思い出しかないため、本籍を三重県へ移しました。
その為、免許証は本籍地の変更が必要となります。

警察前の写真やは、最低の品質のパスポート用写真を2000円で写してくれました。
「元の銀塩写真に戻した方が良いです。」と言って店をでました。
私は、灰色のスーツを着てました。襟は、露光オーバーで白く飛んで、見えません。 まるで調理師の白い上着を着たような写真の具合です
2000円は、ムダにします。他の写真屋または、1分間写真でも探して写します。
馬鹿な写真屋の写真は、パスポートに10年も入れておく気持ちにはなりません。
NIKONのD1を使用していましたが、画像ソフトはどこかのマイナーなソフトでした。
時代に取り残され無い努力は、見とめますが素人写真になってしまっていました。
この写真屋には、2度と行く気持ちにはなりません。

9月17日(月)通勤は、バイクです。 

今日から通勤は、バイクになります。
バイクに乗っている時間は、30分です。
今までの様に、帰宅のバス、JRの時間を気にすることなく仕事が出来ます。
雨の日は、乗れませんが。


2001年9月16日(日)今週も色々ありました 

世の中には、馬鹿な人がいます。
アメリカでは、同じ多発テロが11日にありました。
私は通信教育の課題テストをしながら見てました。
就寝は、午前三時になってしまいました。
今回のテロ行為は、パンドラの箱を開けた様な不気味な感じです。
民間飛行機をミサイルに変え、数百人を犠牲にした自爆行為。
背筋が寒くなります。原爆を破裂させるようなテロが国連ビル地下で起きないことを祈ります。 それにしても超高層ビルは、簡単に破損するのには驚いた。

9月16日(日)指輪を買いに 

本日は、指輪を購入に行きました。
彼女の指は、12号。私の指は、22号でした。
指輪のディザインは彼女の好みに合わせました。
指輪の購入で注意したのは
1.30%の花嫁は、疲労による浮腫みで結婚指輪が入らない。
2.抜け難いが簡単に外せる指輪。
3.自分の適正サイズを知ること。
4.いぶし銀ののような処理は長期使用で消える。
5.他の家具や貴金属を傷付けるダイヤ入りはイヤ。
6.東京の御囲地町価格に近づける。
購入したのは、プラチナのただのリングです。
価格は、両方合わせて6万円。
デパートの貴金属売り場では、1個が57000円ですから安い価格です。
ネームも、結婚日付も無料で入れてもらえます。
ネームとサイズ調整は、1週間かかるそうです。
御囲地町(東京)は、即時でしたが。

9月15日(土)無性に怒る

私の体調は、最近の忙しいことで疲れている様です
自分では、自覚が無いのですが
食器棚の届くのは、15日土曜日と思いこんでおり、届かないと業者に文句の電話をいれました。
業者は、16日配達に成っていました。
どちらの連絡ミスかは、解りません。
自分でも15日配達と思いこんでいます。
どちらかの間違いかはわかりませんが、私は冷静ではなかった。
こんなに自分を乱して怒るのは、久しぶりです。
冷静で無いことから、私は疲れていると思います。

彼女も若干イライラしています。
御互いの健康には、注意が必要なようです。

2001年9月10日(月)父帰天 



父は、2001年9月6日20時24分に亡くなりました。
哀年94歳(満93歳)です。
兄の話では、自分の誕生日(8月14日)を覚えていました。
8月25日までは、元気に話し掛けたりしていたそうです。
9月5日に意識が無くなり、9月6日に息を引き取ったのです。

9月10日(日)会社へ死亡届けの提出

何も言わないのも変なので、家族死亡の申請だけはしました。 申請を書けば、冠婚葬祭の費用が支給されるとともに、上司への報告となりますから。

9月9日(日)松阪市に帰る

午前中は、残りの後片付けです。
外した戸、障子の嵌め込みです。八畳二間を16畳にして葬儀に使用したのですから。
御互いに疲れていたのは、作業が感情的に走りやすかったからです。

家で朝食をとって1時20分にはバス停に送ってもらいました。
鋭気回復の日本橋(大阪電脳街)経由で帰りました。
めぼしいものが無く、サンネンです。

帰宅後は、衣類洗濯、スーツのクリーニング持参、食事の用意で終ってしまいました。
また明日から頑張ろう。

9月8日(土)葬儀

朝からは、雨はなく晴天になりました。
彼女は、喪服に着替えるとき、背中のファスナーを私に上げろと命令します。
外国映画で見た、旦那の役目のワンシーンです。
お葬式の都合で旦那を演じてしまいました。まだ結婚式前ですよ。

朝の食事は、昨日同様に町内の集会場で朝ご飯を頂きました。
精進料理なのに、なぜか酢味噌の蛸がでていました。
三々五々親戚の人々が10時には集まって来ました。

葬儀は、13時30分から仏教(密教)の真言と読経のなかで静静と進められます。
50分間の正座は、きつかったです。
読経の後は、出棺の準備です。
棺の中に親族が各自が手にした花を入れて行きます。
もちろん彼女も親族のそれに含まれています。

八十数歳の三男(私の父は次男)が切々と父に分かれの言葉を掛ける姿に思わず目頭が熱くなりました。
14時15分には、花で見た取れた棺に釘が4箇所打たれ最後の御別れです。
14時30分からは、出棺です。
喪主(兄)による参列者への御礼の言葉の後、霊柩車(キンピカでないワゴン車)とマイクロバスで火葬場への移動です。

火葬は、新しい場所でした。母の時は、5キロ離れた場所でしたが今回は15km離れた新らして設備でした。
15時15分に始まり16時45分に遺骨拾いです。
父は、痩せてはいたが骨は太いです。母の時と比較した場合、残った骨の量は2倍は有りました。

骨壷を持っての帰宅後は、18時に成っていました。
彼女は、愛知県から来た親戚の人の車に同乗して帰りました。
親戚の人も、帰宅です。
家の中では、近所の人による御祈り(1時間)で葬儀の1日は20時に終了しました。
笑い声の多い御葬式でした。 昨日に比較して、彼女は親戚にも、近所の人にも私の奥さんとして認識頂いた1日でした。
彼女の強運なのか、普通の親戚付き合いでは10年かかる事を2日で完了してしまったのです。
結婚式には、顔見知りばかりになりそうです。 私も彼女も年賀は、「喪中につき」と成ります。

9月7日(金)葬儀の準備

5時41分の特急(始発)に乗っての移動です。まだ雨は有りません。
実家近くの高速バスのバス停には、9時40分到着です。
土砂降りの雨でした。家まで徒歩で帰宅しました。
鞄の中までびしょ濡れです。これで明日の葬儀は、大丈夫なのだろうか。
帰宅してからは、まず父親に挨拶です。
顔の覆いを取り除くと、元気そうな顔がありました。最後に見たときよりもふっくらして元気そうです。
顔を良く見ようしても、すぐに霞んだような視界にになってしまいます。

彼女からは、11時に高速バスのバス停には到着したとの連絡がありました。
明日来ると思っていたのに、本日から来てくれて嬉しかった。
三々五々親戚も集まってこられます。
12時には、葬儀業者との打ち合わせも完了しました。
この頃には、土砂降りの雨も上がっていました。 納棺は、14時に業者が行なう予定でしたが親戚の提案で15時から親族で行なうことに成りました。
御遍路姿に衣装を変えての納棺です。
納棺の前には、彼女も末期の水を父に含ませてくれました。

昼食と夕食は、町内の集会場で近所の主婦による炊き出しです。
質素なのは、精進料理だからです。でも美味しいです。油揚げと細切り昆布の煮物は、彼女も気に入ったようです。

祭壇の設置は、14時から1時間で完了です。家の雰囲気が変わりました。
セッティングと同じに、灯篭、はすの花、飾りがつけられました。
生花類は、17時頃に届きました。
告別式は、19時からです。
隣保の人による御祈りに始まり、 親戚によるご詠歌が終ったのは、23時30分です。

彼女は、まだいます。
日帰り予定なので喪服は、持参したが黒ブラウスとか着替えがありません。
17時頃には、これらを家族の自動車で買いに行きました。
よって本日は、彼女は御泊りと成りました。
本日は、葬式の準備、彼女の紹介、結婚の予定を親戚に説明、の1日となりました。

9月6日(木)父危篤

電話は、18時に携帯電話に義姉から有りました。
「おじいさんが調子悪いみたい、すぐ帰って。」
会社には、明日は、休暇を頂くかもと帰宅しました。
自宅に戻るか、実家に直行するかを悩みましたが、準備を整えて明日移動にしました。

1.特急券の購入
2.台風が近いので家の戸締り
3.結婚式の案内状の作成
4.式場の案内図作成
5.同封はがきの作成
6.通信教育のレポート作成
6番まで作業したら午後2時です。通信教育のレポートは、2通予定でしたが 1通作成して寝ました。

父が亡くなったとの連絡は、午後9時に入りました。
兄は、最後に立ち会うことが出来たようです。
兄は、兵庫県の教育者の会議からトンボ帰りです。兵庫県の教育者の会合の席で父危篤を知った ため教育関係からの電報は、多かったです。
私は、父危篤は一切会社には知らせていません。知らせていたら葬式の後処理で結婚式の 準備が出来なくなるからです。
父死亡を聞いた後で、会社への電話は「明日休みます」とだけ伝えました。
葬式の献花には、勤務会社の花は有りませんです。リストラされたと思われるかな。 献花は、会社名の領収書だけ取っておけば後で処理できたのですが。

2001年9月3日(月)また彼女に叱られた 



引越し前後の生活は、バタバタ、クタクタです。
引っ越した松阪市は、ゴミの分類が極めて多く30日(木曜日)の夜は、ゴミ分類で過ぎて行きました。 夜遅くまで分類したのは、金曜日が「燃えるゴミの日」だったからです。

8月31日(金)松阪牛のホルモン屋へ行った

松阪市内は、松阪牛の料理店とホルモン焼肉屋が多いです。
再三食べに行こうと誘われましたがまだ行けてなかったのです。
今日こそは、と決心し仲間を誘いました。
昨年10月から自律神経失調症で休職、離婚した男を誘い出しました。

仕事を終えたのは、6時50分、彼と落ち合ったのは、7時30分です。
約1時間半でたらふく食って飲んで満足です。
彼の家と私の家は、徒歩30分なので焼肉の後、私の家に寄ってもらいました。
結構楽しかったです。


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Diary Page Since Aplil/18/1999 By AKIO KAMBE