ビギナー 日記
1999年7月
この 「ビギナーときたま日記」は、MACを買って5ヶ月経過したのをキッカケに始めました。 最近巡回しているURLは、ほとんどMAC系のサイトです。MAC系サイトの日記が滅多やたらと楽しいので 真似をしたくなりました。

1999年07月31日(土)[ ビールにSPAMいいね。 ]

この日記は、8月1日に書いてます。ビール飲んで寝ちゃったんでかけなかったものです。 夕方には、8月1日分を何か書く予定です。7月のデータが重いのでFTP転送に時間がかかります。 よって7月を早く切り上げたい。

くーーー。暑いですね。
SPAMのラッチョンミートをフライパンで焼いたのをつまみにして、ビールをのんでいます。
うまいですね。少し塩気が強いので1/3缶の程度でやめたいですね。
なぜこんな所でSPAMのがでてくるのかです。



Mac Fan 8月15日号 167ページ 「CYBRER RED CARD 著者:紀藤正樹」にでていました。 引用致します。

SPAMの由来

 受け手の立場を考えずに勝手に送りつけられてくるダイレクトメールや迷惑メールを捲称してSPAM(スパム)と呼ぶ。
SPAMは、米団の大手缶詰会社であるHormel Foods Corporationが製造・販売しているハムの缶詰の登録商標。
そのオフィシャルホームページは、http://www.spam.com/ だ。
テレビのコメディ番組で、レストランで注文をしようとしている男性の前に美女が現われ、「SPAM、SPAM、SPAM」と連 呼しながら、缶詰を売りに来て、断りきれなくなったというシーンから、電子メールなどを使った問答無用のメールを SPAMと呼ぶようになつた(SPAMの由釆はhttp://caramia.g-net.org/spam/参照)。
 この原稿を書くにあたりSPAM缶を買ってみた。ハムの缶詰を見たことがない僕には新鮮な驚きだ。
そのまま焼いて食べると少し塩辛い感があるが、パンにはさむとけっこうおいしいのでお勧めだ。

なんせ、土曜日は、オヤジの義姉が月曜日になくなったので、ご霊前のお供えを届けに田舎に朝から出かけていました。
スーツにネクタイで汗だくです。帰りには、日本橋(大阪電脳街)で、中古のCRT(15インチ)とSB64AWE(中古 の音源ボード)を持ってかえったので、汗だくの二乗になりました。カッターの胸部分は、汗で透けてみえます。

家に帰り着いて、冷蔵庫をあけてもビールの買い置きが無い。
自転車で近くのディスカウントまで買い出しです。
ディスカウントで先般からラッチョンミートを食べたいと思っていました。
陳列棚を見てみたら、写真のSPAMの文字が、並んでいました。
即GET。

ビールをキューーーー。
SPAMを齧る。
適度な塩味でうめーーー。
500mlの缶を3缶あけてしまいました。
最近の猛暑でビールを飲む事が多く体重は、2kg太ってしまいました。

ところで、15インチCRTのビデオコネクタは、15PーDSUBでした。 DOS/V(HD-DSUB-15ピン)には、つなげないのです。 また本日も日本橋に行かないといけないようです。

田舎からの帰りには、ツバイで京都の人の写真を閲覧しようと計画していましたが 頭の中は、15インチCRTの方が興味がありました。でも、CRTには、裏切られた 気がします。

1999年07月30日(金)[ 良いプロバイダは、無いか ]

SSI(サーバー・トイド・イン・クルーズ)のプログラムが正常に動作しません。
これは、昨日の日記で書きました。

本日は、月刊誌(Internet iP インプレス社)を買って来ました。 いいプロバイダが無いかです。

結論は、今のプロバイダ「まほろば」が私の条件に合う事がわかりました。
私の求める条件
1.CGI、SSIが使用できる。
2.ホームページ容量は、10Mbytes必要
3.年間固定料金
4.奈良市内にISDNアクセスポイントがある。

後一つ、いいプロバイダがありました。IBMのAIRインターネットです。
調べた結果は、こちらです。

自分では、インターネツト・オタクでは、無いと思っていました。
でも条件が色々あったので、少し心配になってきました。
私は、オタクなのでしょうか。

1999年07月28日(木)[ 本日はお休み ]

yama 午前中は、庭の草取りです。ハーブの回りも草を取ってきれいになりました。
ついでに「冷蔵庫の整理」です。草取りと、冷蔵庫が関係あるのです。
すなわち、2週間前のチルドギョウザや1ヵ月前のソーセージ、崩れかけた野菜、かびの生えた○○ をハーブの畝に植え込むのです。
私の冷蔵庫は、おかげてスペースができました。内容物が1/2になりすっかり広くなりました。
缶ビールを詰め込む場所もできました。

庭を掘り返して気づいた事は、草を埋け込んだ場所の土は、柔らかいのです。
昨年朝顔がスゴク繁殖したが、今年はさっぱりの場所があります。
掘ってみると、土が異常に硬かったです。
早速穴掘りしての、冷蔵庫の内容を入れました。
元気に朝顔が育ちますように。

庭の畑からの収穫は、真っ赤なトマト6個です。露地栽培ですが、トマト特有の香りはしません。
最近の長雨により、内容がうすまったのかな。

午後は、パソコンの前です。
パソコンの前は、暑いです。
SSIプログラムに再挑戦して、又失敗。プロバイダへヒントを教えて頂いての再挑戦でした。
また暫くは、挫折がつづくのかなー。

見合い相手紹介のツバイからは、『6ヵ月間に貴方は、「この人とコンタクトしたい。」との連絡が来てません』 との郵便がきてました。正直な気持ちは、6ヵ月間一度も見合いする元気がでませんでした。
いやいやながら火曜日に来た今月分の紹介内容を開いてみました。
1人(4名中)だけ、何となく気になる人がありました。
文章の柔らかい人は、気になりますね。
さっそく、「この人とコンタクトしたい。」連絡書をツバイへだしました。

「この人とコンタクトしたい。」連絡書には、 自分をアッピールする文章を5行書く必要があります。
半年前申し込んだ時のアピ−ル文章を読んでみました。
固い文章ですね。コリャ断られるのは、無理無いですね。

相手のメッセージ欄内容を主軸にして、文章を作成しました。
パソコンでの推考ができるので、文章修正は楽です。
書いてみて、結構柔らかい文章ができました。
半年前に比べると、良く出来ました。
関心関心。

でも、ですね。難関が2つあります。

@文章は、手書きで提出する。
私は、字が下手なのです。最近は、パソコンがあるので何とかなりますが キッタナイ字なのです。まあ、飾らない人と見ていた頂ければと希望します。
A相手は、京都在住。
京都の人は、「この人とコンタクトしたい。」報告書を出しても、「お断り」の返事が返ってこない のです。ほほ100%です。他の県の人は、悪くても30%は、「お断り」の返事は来ます。
京都の人へ出した場合は、1ヵ月後にツバイからは「督促しましたが返事はありません」との 回答がきます。京都の人は、気位の高い人が多いのかなー。

結果がきましたら、日記で報告します。

1999年07月27日(火)[ カッコイイ_アナログ信号モニタがほしい ]

yama いまパソコンのラックには、カセットデッキが2台のっていて、スゴイ場所占領をしています。 アナログテープから44.1KHzでのステレオサンプリングするための音出しようです。 1台のデッキは、テープの送り出し、もう一台は、減衰器としてしようしています。 テープデッキからの送り出しレベルが強いのでサンプリングすると音割れをおこすのです。 そのために、わざわざ、デッキを1台余分に使用しています。

本日のジャケット写真は、「パリ木の十字架少年合唱団」のLPジャケットです。これは、もう売ってません。 最高にすばらしいボーイソプラノが聞けます。パリ木の十字架少年合唱団のCDは2枚ありますが、 これの方がいいです。「テイチク」さん、再発売希望します。


ジャケット写真の「SAMPLE」文字は、CDジャケットの著作権で2次使用禁止とのメーカー指示 によります。詳細は、著作権を参照下さい。

本日は、ボースのスピーカーをソフマップクリニックへ修理に持参しました。 直ってくるのは、3週間先になるようです。 ついでに日本橋(大阪電脳街)を散策してきました。 ソフマップのMIDIランドに行ってきました。

目的は、パッシブのアナログミキサーとレベルメーターを探しにゆきました。 24ビットのデジタルミキサーが4万円台であるのには驚きました。 でも私は、ノイズの少ないパッシブミキサーをさがしました。 結論は、無かったのです。

パソコンのソフトでレベルメーターが有ったら良いのにとおもいます。 土曜日に、ジャンク屋でも見回ってきます。


1999年07月25日(日)[CDを効きながら ]

yama 今日は、よく働きました。いまは、山下達郎氏の「ON THE STREET CORNER 2」を聞きながらこれを書いています。 音楽を聞きながらのパソコン操作は、ひさしぶりです。
ジャケット写真の「SAMPLE」文字は、CDジャケットの著作権で2次使用禁止とのメーカー指示 によります。詳細は、著作権を参照下さい。

CDデッキに音楽CDをセットしてさあスタートとおもったら、音楽CDを認識してくれません。
ウァチャー。111回目のインストールのフレーズが頭を過ぎって行きました。
@CDドライバーのサイインストール2回
Aサウンドボードの装着の再実施
BCD不要は、iBOOKの事です。貴方ではないとの言い訳3回
C「設定」→「システム」→「マルチメディア」→「AWE32のリソース」で自動設定が外れていた。
「自動設定」にすると正常に音がでました。

Macの悪口を言うと、Windows95パソコンが腹を立てるとは、考えすぎかな。全てLANケーブルで接続 されているので、気持ちが通じるのかな。MACが悪口言われていると!!。でも、こんな事を考えるほどに 本日は、心がやわらかです。

朝一番の仕事
ミンクオイルの塗布です。5足の革靴の底には、ミンクオイルを塗りました。普段革靴の手入れ等しない人です。 先般、靴底交換のときに『靴の底には、ミンクオイルを塗りましょう。皮が丈夫になります。』言われたから。 最近の雨で、靴底が疲労しているかなと優しい気持ちになったからかな。
朝2番の仕事
草引きです。2時間頑張りました。2週間程前に家の前(ハーブ畑)の草取りは、していました。 裏側は、手をつけていませんでした。南京の小さな実を取らないように気をつけての草取りです。 サラダに食べようと思った「どくだみ」もきれいに取ってしまいました。
家の裏側は、ハーブもあります。「タイム」、「セージ」、「オレガノ」、「フェネル」、「バジル」が元気です。
草取りで気づいたのは、トマトの茎は、香りがいいですね。古くなったトマトを捨てた場所から、トマトの苗が育っていました。 少し苗に触ると、トマト特有の香りがしてきます。良いですねトマトの香り。
昼一番の仕事
昼飯用材料の買い出しです。ワカメスープ(韓国風)を作るためです。昨日は、豚肉を使用したワカメスープでした。 本日は、牛肉を使ったワカメスープを作るためです。作った結論は、ブタ肉を使用した方が美味しいです。 ワカメスープは、NHKの「試してガッテン」で見たので作りたくなりました。スープ(汁物)と言うよりも、 具沢山の煮物風の料理です。でも土曜日は、胃痛が一発でなおりました。暑い時には、暖かい食べ物が良いですね。

CDの曲は、ラテン・チェロ(ロンドンの24人のチェリストたち・・発売 東京エムプラス)に変わっています。

朝2番の仕事
洗濯・布団干し・昼寝

今は、午後5時50分。いまからは、テープ録音した音を、WAVEファイルに変換する予定です。
7月20日に1年ぶりにKさんにあいました。Kさんは、Fright Cornerで、エレベータの不思議を体験した人です。
横浜の義兄の「肺ガン」で亡くなったのと、自分の両親の看護で3ヵ月奈良の家庭を留守にしていました。
久しぶりに会って「ご苦労様でした。3ヵ月の御褒美に希望を何なりと」
お気に入りのオムニバス音楽テープから「CD」作成して欲しい。以前のテープは、擦り切れて、音がしなくなった。 いま音楽を聴く環境は、DISK ウォークマンなのでCDにして欲しいとのこと。
まあぼちぼちやりますよ。
バラの花を3本買って、『また来週からの横浜での看護ご苦労様!!。さみしがっていた旦那にもよろしく』と。

いざ録音をしようとしたら、モニタースピーカー(BOSE MM1)が動作しないのです。 そして、WindowsNTでサウンドレコーダで録音しようとしたら60秒で制限されてしまった。SP4(サービスパック4) をインストールした結果だとおもう。さんざんです。いまは、午後8時。ビールでも飲んで憂さ晴らししよう。

FTPも正常に動作しなかったので、今ごろアップ(午後10時)しています。ビールを飲みながら。

1999年07月23日(金)[ パソコン物欲モードに成りそう ]

本日は、CD−Rメディアを購入に日本橋(大阪電脳街)に行きました。
2週間ぶりの日本橋です。

DOS/V用の128Mbytesメモリは、11800円でした。ひゃーー。3000円の値上がりだ。
でもですね、パソコンの価格が79800円でしたよ。OS無し。15インチCRT付きで。
1年半で、性能が3倍になって価格は、1/3ですよ。
OSインストールは、+1万円。17インチCRTにすると+1万円だそうです。

アプリケーションは、無しなのでやすくなっています。大手メーカーのたっぷりソフトは、パソコンの値段を3 万円UPにするそうです。私は、メーカー製を買ったのは、ノートだけですが色々ソフトははいっていました。
でも、私は、全て消してクリーンインストールしてしまいました。メーカーお仕着せのアプリケーションは、じゃまでした。

だから、アプリケーション無しのパソコンも結構、良いかも知れません。でもパワーユーザーで無い場合は、お勧め 致しません。
安価なパソコンは、ビデオ回路も音源回路もイーサーネット回路も全てマザーボードに直付けされていて 機能拡張のときは、困る場合があります。

でもですね、ツインCPU用のマザーボードが何と23000円で売っていました。
本年初めは、48000円ほどしていました。物欲全開モードになりそうです。
ただし、ツインCPUは、OSが限られます。WindowsNTまたは、BeOS、Linaxのみが 対応しています。Windows95/98では動作しません。
でも私には、WindowsNTがあるので、中古のCPUとマザーボードで5万円以内でつくれそうです。

そして、恐ろしや、PentiumV 600MHzが99800円ででていました。
2年前にPentiumU300MHzで13万円もしたのになーー。世の中の進歩が早い。

私のWindows95は、PentiumUで450MHzで動かしているから、別段不満は有りません。
だって、日記書くのに使用しているだけですから。
ケームは、ぜんぜんしないので、十分ですね。

でも、速いパソコンは、欲しいです。
今日の日記は、読みにくいとおもいます。
ところで、重量級(相撲取り級)のノートパソコンiBooKがアップルより発売されたとか。
ダッサイディザイン。ポリタンクのG3でまだ懲りないのかな。
私は、ただで差し上げますと言われても、お断りいたします。あんなチャラチャラした色のパソコンは、 趣味じゃ無いですので。
ところで、ポリタンクのG3 300MHzは、中古で158000円でした。
でも、Power Mac G3 DT233やMT266の中古は、昨年末との価格差は、出ていません。昨年末からの人気は 変わらないようです。
PB2400は、中古で148000円でした。iBookよりこっちの方が、私は好みです。

アップルは、iBOOKからCD−ROMをはずせばいいのに。最近私は、CD−ROMを殆ど使用していません。
OS立ち上げるときだけ使用します。アプリケーション等は、HDDにフルコピーして使用していますから。
追加で必要な場合は、ネットワーク接続で他のパソコンのCD−ROMを使用しますから。
FDD無しにするなら、CD−ROMも外すべきですね。アップルの考える事が解りません。

1999年07月22日(木)[ Macと仲が悪い ]

「弟子1号」は、インターネットに興味を持ってきた。 ぜんは、急げと、「モデム(サン電子 MS288EF)」を持っていざ出発。

とりあえずは、私のプロバイダーを「仮設定」するために、 設定項目をプリントアウトして持参しました。

「アップルメニュー」→ 「コントロールパネル」→ 「TCP/IP」を設定。 そして、ネットスケープを立ち上げて、「ウイザード」にしたがってインターネットを設定しました。

でもだめでした。TCP/IPでの接続選択での「PPP」が無効です。 「Ethernetに切り替えます。」でぜんぜんだめでした。 ガッカリ。

最近の私は、LAN接続でダイアルアップルーターを使用しているのでマルッキリ 理解出来ません。モデムとどうやったら仲良くなれるのかな??。

また挑戦します。

今日、気がついたけど「弟子1号」のパソコン起動時間は。私のパソコンの2倍早いです。 288Mbytesのメモリと5400回転のHDDは、良いですね。 起動時間がヒューーン!ですから。 そういえば、私のWindows95機もメモリは、256Mbytes(PC100)になっているから 早いです。いままで一番早かったPowe Mac G3 MT266が一番遅く感じる。 世の中、うまく行かないときは、重なりますね。「モデムは動かない」、「CGIは 4月から保留」。パソコンでストレスがたまるーー。

1999年07月21日(水)[ 部屋が広い ]

いやーー!!。部屋が広い。
本を140冊を片づけた結果、部屋が広く感じます。
殆どの本は、パソコンの月刊誌です。
いつか読もうと思って保存していた、月刊誌です。
でも思い切って、廃品に出す事にしました。
1年前のパソコン雑誌は、今では役に立ちません。

月刊誌の廃棄は、決断ですね。
たまたま、20日に友人が訪問してくれるので、3時間かけての大掃除です。
このまえ掃除をしたのは、「弟子2号」が、ホームページを教えてくれと言ってきたときです。
すでに3ヵ月は、経過しています。
ウーーム。3ヵ月掃除していなかったわたしです。

私は、風呂に入るのと、掃除は、苦手です。
食事は、気軽につくっていますが、掃除はダメですね。

掃除をすると、色々なものが顔を出します。
印鑑がでてきたり、洗濯挟みや、無くしたフロッピーなども出てきました。

裸足で歩いても、足の裏に砂が付いたりは、しなくなりました。
玄関の入り口は、2倍も広くなりました。
まるで他所の家みたいにきれいです。

いつまでも、このままが良いのですが。
でも今日は、Mac Power 8月号を買ってきたし。
3ヵ月もすると、また部屋が狭くなるとおもいます。
でも今は、快適ですよ!!。

1999年07月19日(月)[ わたしの神・後編 ]

本日は、Frighr Cornerに「わたしの神・後編」を登録しました。

Fright Corner へ

1999年07月18日(日)[ わたしの神 ]

昨日は、長い文章(重くて、長い)をお読み頂、ありがとうございました。
昨日の文章は、本日のFrighr Corner(わたしの神)に関係するため収録しました。

Fright Corner へ

1999年07月17日(土)[ 離婚した理由 ]

今日の日記を公開する事は、勇気を必要とすることです。でもって今日の日記は、「女の子は、大切に育てられるべき」とする事柄が重なったためです。
・菜摘の風俗日記・・優しく育てないと風俗嬢になるよ。
・舞子の「バブルの崩壊」・・ひどい父親だった。
・NHK(7月15日深夜放送)・・青い花火(自分を求めてAV嬢になる話)
私が離婚した相手(YKさん)も父親のワガママで苦しんだようです。
藤高さん(ベルさんの著作権管理者)からは、「『YKさんと結婚したのは、彼にとってよかったかも知れない。』と ベル神父は言っていた。」と先週聞きました。
私は、この結婚を通して、良い面49%、悪い面51%と今でも感じています。「結婚しなかった私」が、YKとの「一時的な 結婚」が出来たのは、お互いの「奥深い所の傷」があったからです。
また「一時的な結婚」でわあったが、互いの「奥深い所の傷」が少しは癒されたと感じています。
私の慰めは、「結婚する前よりYKは元気になったこと」と「決して彼女が人権無視の入院は無いだろう」と考えるからです。
私以上に、幼少で心傷ついた彼女がこれからも幸せであって欲しいと今でも願っています。

1994年12月10日
ピーター・ウィックス神父様
各位様

離婚処理完了の件(報告書35)

 拝啓 気候は、厚い夏の噂をしておりましたが、はや年の瀬を迎えるに至りました。 さて私とYKの離婚届けは、12月2日に完了致しました。荷物引き取り及び市役所等 への提出用書類等の準備は、12月5日前後に完了致しました。皆様には、この3年間のご支援・ ご鞭撻戴きましたこと心から感謝致します。結婚は、解消に至りましたが私自身の人生にとって貴重 な体験をさせて戴きました。お陰様で、人間的にも成長できたものと感謝致しております。
 結婚式は手作りで出来た事及び離婚処理が誠意をもって処理できた事は、一重に皆様に愛されてい るという強い確信があったからです。苦しい状態であっても相手様に失礼のない処理が出来ましたこ とは、一重に皆様のお陰と感謝致しております。私とYKの離婚処理は、この報告書をもち まして終了させて戴きます。
 YKさんから電話等がありました場合、古き友達として対応戴きますようお願い申し上げます。
 11月27日以後に処理した内容は、下記の通りです。

敬具

【1】添付資料一覧
                    
処理内容
処理日付
参照ページ
離婚届け提出12月2日処理2〜3ページ参照
引っ越し荷物12月4日処理4〜5ページ参照
必要書類の準備12月3日、5日処理6〜8ページ参照
教会への結婚無効処理依頼12月5日処理9ページ

【2】所感
結婚以来今日に至るまで作成した資料は、本書を含めて53通(厚さ25mm)です。結婚準備 の書類(15通 厚さ13mm)に比べて2倍の量になります。詳しい資料の提出は、当事者に取 ってつらいことです。でもその結果、皆様のご協力が得られました。
皆様からのご意見は、慰めで  もなく教訓でもなく、「よく誠意を尽くされた、少し休みなさい」の慰労の言葉のみでした。ほぼ  処理の終わった12月6日〜7日は、疲れたのか風邪で会社を休みました。お陰で体は、元気にな  りました。離婚届けが完了してからは、極めて平穏な生活をしています。ここ1年手放せなかった  アルコールは、2週間以上飲んでいません。やっとストレスから解放された気分です。
  今後ともよろしくお願い申し上げます。

以上


1994年10月1日
配布先 
ピーターウイックス 神父様
各位様


YKとの離婚を考えています

 前略 皆様さまには、手紙が衝撃的な文章で始まっている点、申し訳なく思っています。結婚の経 過は、1993年3月7日に報告して以来1年半ぶりです。この1年半は、あまりよい日はありませ んでした。
 彼女は、今、人を信用出来ない状態になっています。彼女に今必要なことは、実家で安心して生活 出来るようにしてあげることです。離婚の目的は、彼女の実家の家庭環境改善と心の負担を軽減する ことです。結婚前後の経過、彼女の状態等の詳細をご説明申しあげます。

敬具

【1】YKの現在の状態

・食事は、1993年5月からは数回しか作っていません。
・私との共同生活は、1993年10月からほぼ有りません。(家を出たままです。)
・彼女の生活場所は、彼女の生まれた家(現在は電気、水道が無い)です。現在の実家に居ることは、 苦痛のようです。
・信用している人は、辛うじて彼女の母親だけです。
・私との会話は、まったく無い状態です。
・神経科の医者に相談した所、治療の必要有りとの判断です。(1994年8月31日)

【2】結婚前後の経過

(1)お見合い(1991年11月24日)

今回の結婚は、カトリック結婚互助会のお世話になりました。結婚の身上書も父親が公務員 であり身元もしっかりしているとの事でした。行動は、若干自閉症的な部分はありました。 ご両親に理由をお聞きした。
・10年前(今からなら12年前)にS病院に1回入院した事が有ったたとのこと。
・薬の服用等は、今は飲んでいないとの事でした。
・入院したが、「脳に欠陥が無く精神的ストレス等で発生」であると担当医に確認できました。(1992年2月頃)

彼女の状態は、両親の話と医者のはなしから結婚前のストレスで発生しているものと判断し ました。
今後に10年前の様な病状に至った場合、双方の家庭が協力して対応するとの約束 をしました。
彼女の状態は、結婚に近くなるに連れ時々、幻聴が出るようになっていました がとくに生活上不都合はありませんでした。
彼女は、今まで出会った女性より優しい部分がありました。
彼女の状態と優しさを比較した場合、優しさの価値がまさっていました。
私は、彼女の優しさに惚れて結婚を決意しました。
しかし両親の話は、全て嘘だとは此のときは気が付きませんでした。

(2)改善の期待

新婚旅行は、スリランカにしました。両親の話では、飛行の長時間移動は彼女が耐えられ ないだろうとの事でした。しかし無事に、旅行から帰り生活を始めることができました。
彼女は、結婚式や旅行に十分絶えて立派に主婦業を行える期待がありました。彼女は、結 婚式の疲れがなくなるころから我が儘が目立ってきました。私は、女性と付き合った事が無 ため、女性特有の我がまま程度におもっていました。
彼女の我が儘状態は、一応彼女の両親に毎月手紙報告していました。報告書は、今までに 20通以上提出しています。
報告書は、医者に提出する資料を作ることに役立ちました。
報告書は、彼女の実家での状況改善には役立ちませんでした。
報告書は、父親が母親に「お前が悪い」と責める材料になっていました。
我が儘の程度が過ぎた場合、彼女には実家に帰ってもらいました。
普通実家に帰った場合、両親に慰められて元気になります。でも彼女には、 安心して帰る実家が無かったのです。
実家は、お父さんの我がままの天下でした。
お母さんは、お父さんの仕打ちに脅え自由な発言も出来ない家庭でした。
お母さんは、「私たちの結婚式後」能登半島まで家出(一週間)しました。
彼女が実家に帰った場合、『弟の結婚するのに支障がある。』と言われ2〜3日で帰って来ます。 家に入れてもらえる場合は、まだ良いのです。
しかし彼女が精神的に落ち込んでいる場合は、実家に帰るのを恐れて火の気のない空き家 (彼女の生まれた家)や農機具小屋に宿泊していました。冬でも同様です。
私は、彼女の家出している日は、実家に帰っているものと信じていました。 でも最近解ったことは、3分の1程度は寒い場所でじっと我慢していたのでました。
それを知らないで私は、彼女の我が儘な振る舞い(癒されていない心の現れ)に腹を立て ていました。
私の精神状態は、1993年9〜10月頃には、限界になっていました。彼女 とのストレス解消に毎日ビールをのんでいました。健康診断では、脂肪肝と診断されました。
疲れの状態は、耳鳴りのするまでになっていました。疲れを取るため私は、お母さんに相談し彼女 を預かってもらう事が再三ありました。
でもお母さんは、彼女の状態とお父さんの我が儘の板挟みでつかれていました。
そのためお母さんは、彼女を預かれるのは2〜3日だけでした。
私も疲れ、お母さんも疲れた場合、彼女の逃げ場は寒い場所しかないのです。
冬の1月に濡れた服装で帰って来たことが、再三有りました。
それでも何とか結婚を続けていました。

(3)私の限界

限界は、ついに私にきました。YKさんの両親に会うことすら、電話することすら怖くなって しまい、彼女の実家とは、手紙以外での連絡をしなくなりました。
その結果、1993年10月15日に私は、彼女を殺そうとしました。
最後の一線は、守ったので事件にはなりませんでした。
しかし彼女の首には、2週間手の跡がきえませんでした。(お母さんの情報)
彼女は、その後も掃除をしに奈良に帰って来てくれました。
宿泊は、極めて少なくしなくなりました。私には、会ってくれません。
手紙は、時々彼女から来ました。そのとき彼女は、実家に帰っていたのではなく、寒い場所にいたのです。
その間私は、彼女に優しい言葉を掛けませんでした。やっとゆっくり疲れを癒せると思っいました。
彼女は、自分を受け入れてもらえない寂しさから、嫁入り道具を全て実家に送り返しました(1994年1月22日)。 彼女は、そうする事で実家に大手を振って帰れるもと思ったのでしょう。

10月に彼女を殺しそうになった後でも、彼女は、私に心を開いており、次の文章のこしています。
 お元気ですか。昨日、10時まで隣の停留所に居たのですが。
どうして恐ろしいことが起こったのでしょう。だから、帰ると、又、あんなことが起こ らないかと心配なの。
それで困ってます。
もう、きっと起こらないなら、帰りますが、ちょっと不安でしたら、もう少しお留守にします。
今日、帰られたら、家に居ると思いますが、本当に、もう、あんなことが起こりません様、誓ってほしいな。だって怖いよ。
一つくらい、ぶつのは良いけれど、あんまり、ひどかったよ。それで帰らないんだよ。
どうかわかってね。
貴方の結婚って、何だったのですか。本当に愛してたのは、誰だったのですか。
私って、愛されるに足りない妻でしょうか。
今、貴方の心に、何が起こっているのですか。
もう帰れますか。お昼にでも電話下さい。
(追伸)今日は、土曜日なんだね。お昼にでも電話します。教会であえるかも。........
1993年10月23日.AM  YK.

(4)YKの父親は、非協力的

彼女の実家には、安らぐ場所はありませんでした。
彼女が実家にに帰ってからも、お父さんは、『お前が悪い』とお母さんを責め立てるだけ でした。彼女の状況報告書は、彼女の両親に送っていました。しかし1994年1月頃から は、お母さんのみに提出しています。何故ならば、手紙がつくたびにお母さんがせめられて いたのです。
私は、彼女が嫁入り道具を送り返すまでの1年半、報告書を20通以上のをかきました。
彼女の両親に、協力戴く為です。彼女が何をしたかを毎月報告しました。何故なら、結婚す る前、両方の家族が集まって、「彼女が病気になったら助け合いましょう。だからお互いに 協力しましょう。」と約束したからです。
しかし彼女の父親には、協力戴けませんでした。私の連絡は、全てお母さんが身を潜めな がら対応していました。
私は、1994年2月にお父さんと話がしたいので「奈良の家に来て下さい。」とお願いし ました。20通以上も手紙を書いても改善策1つ提案しないお父さんを呼び付けました。
しかし、来られたのはお母さんだけでした。お母さんとは、1994年2月22日に1回目 の改善策を検討しました。
その後も、心の病の人に対する現在の治療方法がどうであるかなどビデオテープを見て戴 いています。また心理学の本を数冊読んでもらっています。その結果お母さんは、彼女に対 して一方的に話すことも、口やかましく父親に迎合した叱り方も無くなりました。お父さん にも自分の考えを主張するようになりました。
《参考》
*見てもらったビデオテープ(NHKの放送内容収録したもの。)
・脅威の小宇宙人体*(心と脳)(1993年10月より放送 6回分)
・精神障害を考える      (1993年8月23日、8月24日)
・迷える心の情景       (1994年3月21日、24日)
・お父さんへ・赤ちゃんからのメッセージ(1994年5月22日)
*読んでもらった本
・心の処方箋     河合隼雄著
・家族関係の・・・ 〃
・魂の殺人(新聞切り抜き)アリス・ミラー
2月22日以後私は、毎週彼女の実家を訪問しました。
彼女は、朝の9時頃家を出て、夜10時〜11時に帰る毎日でした。
そのため会うことは、できませんでした。
また会っも直ぐに逃げてしまいました。
合えない代わりに花、ケーキ、服等を買って届けていました。
お母さんの薦めもあって、1994年7月23日に一泊して、彼女の両親と酒を飲みなが ら心おきなくはなしました。彼女を元気にするための2回目の打ち合わせになりました。
彼女は、帰ってきませんでしたが。
嬉しいことに、8月の母の7回忌(私の母)にお父さんが出席戴くことも決まりました。
しかしお父さんは、酒の覚めた3日後、7回忌に欠席すると連絡がありました。
何とか心の繋がりを求めたい私は、7月30日に再度訪問し、お母さんと3回目の改善策を 打ち合わせました。
・父親の態度が変化しない場合、彼女の改善はない。
・彼女を病院に連れて行ってほしい。
・7月30日から2カ月間で協力戴けない場合、離婚します。
その後、1カ月間何の音沙汰がありませんでした。
ましてや彼女は、8月4日頃から9月12日まで家出したままでした。
途中8月28日に帰って来たのに、「病院にて治療する」 と父親が脅したため9月12日まで帰ってきませんでした。
お父さんは、協力してくれません。
・結婚するときは、病気の詳細をかくしていた
・お母さんを責める
・彼女を脅す。
・嘘をつく
こんな状態では、彼女は改善しません。

(5)彼女の対策が必要

今は、もおだれも信用していないような文章が、1994年8月4日に置いてありました。
彼女が久しぶりに帰って来て、家の中を掃除していたっためです。でも、掃除の内容が無茶苦 茶でした。まるで引っ越し荷物の要らないものをすてる様にかたづけていました。
このままの状態では、彼女は、結婚する以前よりわるくなってしまっています。
彼女は、母親の言葉も信用せずにいます。
1カ月経過しても父親は、何らの対策もしません。
仕方が無いので私は、彼女が以前薬をもらっていたN病院へお母さんと行きました。
彼女は、連れて行くことができませんでした。でも何らかの方向は、出せると考えました。
その後1カ月経過しましたが、彼女を説得してN病院に連れて行くことはできていません。
N病院の先生は、以前彼女がお世話になった先生は、居られません。
その為薬等は、診断しないと出してもらえない状態です。
別の方法は、以前お世話になったS病院の先生に相談する方向で検討ちゅうです。
10月上旬にお母さんが病院へ訪問予定です。私は、2年半の経過をまとめて先生への報告 書を作成しました。この報告書と同様のものを提出します。
何とかお父さんに本気で協力してもらうため、あえて9月28日に離婚の提案を私からし ました。彼女が6カ月以内に元気になれば復縁します。
離婚提案までして、彼女を改善させなければならないと結婚当初は思もよりませんでした。
彼女の病気の事を事前に知らせてもらっていれば、私を信用してくれている間に、薬を飲 ませることも出来たと悔やまれます。

【3】彼女の病気の推定原因

彼女の病気は、父親が作り上げたものと判断いたします。
調査した内容は、女が書いた手紙、お母さんから話、彼女の弟からの話をまとめてみてわかりました。
この手紙を書くまでは、父親が厳格で会ったために幼いころの影響が出たと思っていました。
しかし調べた内容を年月順に並べた結果、彼女の病気は入院によって作られたものと思われます。
即ちノイローゼ状態であった彼女を4回も入院させた結果、本当に病気にしてしまっているのです。
当初お母さんは、京都の劇団に居たころ、芸能人がよく使う薬を服用した結果ではないかと言っておられました。
最近は、劇団が原因では無いことを少しづづわかって戴きました。
私は、下記の結果から結論をだしました。

(1)入院以前
・彼女は、小学校のころ父親から受けた折檻は、警察の手錠を掛けられる、竹刀で叩かれる、 留置所に入れられる等の少し行き過ぎ内容でした。
・お母さんは、お父さんの性格が解ったのは結婚後13年必要だったとのこと。(私は、彼 が極めて神経質であり、ストレスに弱い内弁慶と判断します。)
・彼女は、中学校の卒業者総代として卒業式で答辞を述べています。極めて頭のよい女性で あると判断します。
・芸術等の感性が良く、大学のゼミは美術・演劇関連を選択しています。
・大学は、3年間で卒業に必要な単位を修得していました。4年生の時間は、演劇の勉強の ため京都の劇団に通っていました。
・大学卒業後は、親の反対を押し切って家出同然で“劇団”に入りました。
・劇団にいる間、親子の音信は無かったようです。
・彼女の生活は、各種のアルバイトと時折訪問する弟の差し入れで賄われていました。
・1978年に演劇人として適していないと、退団させられています。 多分このころは、目標を失ってノイローゼ状態であったと推定。
・1979年の2月ごろ、劇団からの連絡で両親は、彼女を奈良に連れてかえっています。
(2)入院の時期
・京都から帰って8年間、彼女は、商社や対面販売の必要な書店で働いていました。従って お客が気味悪がる様な状態では、決して無かったと判断します。
・入院の少し前の彼女は、親戚の家に逃げていっていました。それを改善するため両親は、 拝み屋(心霊治療師)等にに連れて行ったとのこと。拝み屋を頼る程度ですから彼女は、 極めて軽いノイローゼであったと推定。
・彼女が最初に入院させられたのは、京都から帰って8年目の1986年7月(60日間) です。
・彼女が最初に入院したのは、弟が結婚する概ね1年前です。弟の結婚は、家の新築(約 2700万円)を伴っています。家の新築は、1年以上の期間を必要とします。従って弟の結婚 に支障が出ないよう、彼女は無理やり入院させられたものと判断します。
・彼女の2回目の入院は、1987年7月です。1回目の退院から6カ月目です。友達の家 に逃げて行って、実家に帰らなかったためです。
3回目は、1年半あとの1988年5月です。帰りの電車賃を持たずに、横浜まで行った 結果です。両親によって病気にさせられて居るとしか、思えません。
・4回目は、1年後の89年11月です。(尚、4回目の入院は、私と見合いする1年半前 でした。入院の回数と時期を知ったのは、1993年3月です。)
・その後彼女は、N病院で1991年8月頃からまた薬の服用をしています。 私との見合いは、薬の服用中でした。
《参考》
・彼女は、入院中の鍵の掛けられるときの音の恐怖、世話になった先生の名前、周囲の患者 さんの様子を克明に覚えていのす。
・スリランカ山間の道をツーリストカーで移動中に、彼女は居眠りから目覚めてパニックに なった時があります。S病院への道に似ていた結果、昔の恐怖が蘇ったのです。
(3)結婚前・後
・嫁入り道具は、両親の援助を極端に嫌って居ました。両親の援助を嫌がる彼女の為に、私 が三面鏡をかいました。その後実家(私の)の希望・女の気持ちを考え、嫁入り道具を受け 取りました。
・結婚後色々ありました。でも彼女は、家に一人で居ることができました。結婚した年は、 私の出張が多く、2〜3週間留守にすることもありました。その間、彼女は実家に帰りま せんでした。
・彼女の示す症状は、箇条書きにすると70項目になりました。でも私が会社の仕事に支障 を及ぼすものではありませんでした。
・彼女が4回目の退院をしてから4年経過します。治療は、必要ですが未だに入院の必要性 を感じません。最近の治療は、脳神経伝達物質を適性量に調整する薬をつかいます。薬の 服用の結果、殆ど健常者と同様に社会生活が送れます。鉄格子や鍵は、必要ありません。
・私が自己の限界に達し彼女の首を絞めた後は、人を信じない状態に戻ったようです。 普通の夫婦では、日常的なトラブルですが彼女には、耐える力が元々なかったのです。
従って、彼女の病気は、父親によって作られたものと判断致します。

YKの額の左側(左目端の5cm上)に子供時代の傷があります。 彼女に質問しました。『これは、「ロボトミー(1960年代に禁止された)」の 手術後ですか。?』。私は、彼女の父親ならやりかねないと思っていましたから。 「ロボトミー」が知りたければ、『カッコーの巣の上で』のビデオを見てください。どれだけ 人権無視な前頭葉削除手術であるかが解ります。これ(朱記部分)を書いていて寒気がします。
【4】今後の対応
(1)お母さんの踏ん張り
お母さんへの応援は、1994年2月より続けてきました。ようやく優しく強いお母さ んに変わってこられました。私は、以前のお母さんを嫌いでしたがいまは良い話相手です。 YKさんは、きっと実家に安心して帰ってこれるようになると確信します。
(2)私の離婚は、逃げ道封じ
YKの実家には、本腰を居れて彼女の対応をして戴く必要があります。私が離婚した場合、 YK家は、跡継ぎができなくなります。より子の弟は、現在独身です。
しかしYKさんを抱えては、結婚する条件にあう嫁さんは見つかりにくいとおもいます。
弟の性格は、女性を強引にものにするタイプではありません。従って、今のままでは、 跡継ぎは、途絶えます。
お父さんの体力は、2年半まえと比べて極めて弱って居ます。お父さんは、初孫 を楽しみに65歳まで勤務しておられます。でも今年で仕事を止める予定です。 さて今までの我が儘を通すと、跡継ぎがなくなる。

私は、お母さんに対して半年協力します。彼女が直った場合または治療で良くなった場 合、復縁もありえます。回復の無い場合は、自由にさせて戴きます。
このあたりの書き方は、私も相当毒がありますね。
【5】離婚の署名のお願い

私は、協議離婚を予定しています。知り合いにも調べてもらった結果、痛み分け程度の苦痛 を覚悟するなら協議離婚が良いようです。私は、慰謝料を希望しません。慰謝料を取ったり、 裁判になれはお母さんを苦しめるだけです。YKさんを守ってくれる人は、お母さんだけです。
・協議離婚は、市役所に書類を提出するだけです。
・協議離婚の場合、承認が2人必要です。
・カトリック信者は、一方が未信者の場合、ローマ法王庁の離婚の承認は難しく無い様です。
現在、離婚証書は、YKさんに渡しています。本人の署名が必要です。署名入りましたら 各位へご挨拶にうかがいます。そのときには、よろしくご署名捺印をお願いもうし あげます。
この一週間、彼女の残った荷物を片付けていました。1年分の涙が1週間で出てしまいまし た。病気とはいえ彼女の芯には、他の女性に無い光るものがあります。そんな光るものを持っ た女性は、彼女が初めてでした。私の再婚は、もお無いと思います。 皆様には、2年半私たちを見守って戴いた事、心より御礼申し上げます。

以上

「踊る大捜査線」を見て私は、複雑な気持ちになります。警察官の職業は、 尊敬します。でも警察官の家族は、家庭に問題があります。鬼を相手の職業は、自分も 鬼になります。仕事を終わっても鬼の雰囲気は、家庭に持ち込まれます。それが子供の情緒に影響を及ぼして います。YKさんの父親は、奈良県内では、優秀な警察官でした。Frite CornerでのKYさん(心臓の調子の悪い人)の 父親は、警察官でした。息子が一週間家出した友人も、警察官でした。仕事は、尊敬しますが、警察官の 家庭内は不幸だと思います。よって複雑な気持ちで見ていました。

やっと自分が、告白できました。これで来年からは、「バレンタインデー」に脅えなくてよくなりました。 「おじマク」の掲示板(2月14日頃)では、脅えていました。あれから半年、この「日記を書く」で 少しづつ、自分が癒されてさたようです。
本日の日記は、お読みいただき、お疲れさまでした。
心が開放されたので、素敵な女性を募集します。

1999年07月16日(金)[ 少し長い目の散歩(2) ]


この日記は、7月17日に作成しました。

私の通勤方法は、大阪−奈良間は、2つのルートのどちらでも利用がてきます。 普段は、鶴橋−奈良(近鉄線)を利用しています。
もう一つの方法は、天王寺−奈良(JR大和路線)です。

普段は、私は一人で退社します。16日はたまたま職場の人(隣の席)と同時退社でした。 彼は、JR線で奈良へ帰ります。彼が「たまには、奈良まで」といったので、「料金を確認して。」 決めることにしました。料金表を見たら450円だったので奈良回りで帰ってみることにしました。 8ヶ月ぶりのコースです。

さすが、浦島太郎を感じました。
JR奈良駅には、西改札口が出来ていました。奈良駅西側の三井アーバンホテル?の側に出ます。 現在の東改札口の改装の予定が立っています。彼の話では、駅舎の保存運動がいま起こっているそうです。

そもそも本日奈良回りにした理由は、小型なべを購入するのが目的です。 半年前、ステンレスなべが欲しくて、大阪千日前の道具屋筋、大阪、奈良のデパートを殆どさがしました。 やすくて、見た目の良い西洋式のなべをです。現在使用しているのは、ポルトガル製の5種類セットのなべ です。国際見本市の最終日に2万円で購入したものです。見た目は、最高ですが、ハンドルの接続が 悪いため、現在は、大、中の両手なべだけが残っています。ミルクパン、フライパン、小なべは、全て ハンドルの溶接から取れてしまいました。

半年前は、ベルさんの「著作権管理者」の藤高さんが「良いなべ」無いですか?。で探し回った結果、 ダイエーがインドネシアで制作しているプライベート商品のなべが最高でした。
・ステンレス製層構造側面で肉厚。
・底厚で電磁調理に使える。
・アメリカ製品の1/5の価格(2200円)
・ディザインも良い。

なべを買っての帰り道は、また20分歩いて、新大宮(近鉄線)まで行きました。 なら大宮通りの街路樹は、すずめの巣になっていました。1本の木には、30羽は止まっていると思います。 JR線の線路から新大宮までは、全ての街路樹からすずめの声です。可愛いよりも「不気味」でした。 ヒッチコックの「鳥」を思い出して、背筋が寒くなります。 木は、15m間隔とした場合、鳥数=(2Km/15m)*20*2(道路両側)=5333羽

新大宮駅前の古本屋で5冊本を買って帰りました。
マンガ・家裁の人(9)、(11)
マンガ・男はつらいよ(1)
お母さんの敏感期(モンテッソリー教育の本)
江川卓「夢ワイン」

なべは、先週壊れました。またもや予定外の仕事。「動かされる時」なのかな。

1999年07月15日(木)[ 少し長い目の散歩 ]


今日は、早めに会社を飛び出しました。いつもは、残業しないときでも1時間程度は、書類を調べたり 連絡事項の確認をしたりしています。でも今日は、退社時間の10分後には、着替えをしていました。 オッサキニーー。!!。

本日は、月刊誌の発売日です。Mac Fan と Dos/Vマガジンの発売日ですから。いつもは、 天王寺MIO(9階)の旭屋書店に行きます。駅の上ですから近いです。でも最近は、もっと近い本屋が ありました。鶴橋駅ガード下の本屋さんです。5分は、短縮できます。ただし、専門書は、相変わらず旭屋書店にしています。

今日の日記は、長い散歩のお話です。今日も一駅手前で下車しました。まだ午後6時25分で日がまだ高く、 いつもの20分でかえる道ではもったいない気分になりました。歩いている途中でどっちに行こうかと思案し、 大和文化館(近鉄関連設備)方向に足を向けました。 歩いている途中から、池の水面が見たくなったのです。

当て図っぽで歩いていると、蛙又池の水面が見えてきました。この辺りは、高級住宅街なので、平屋か二階立て の家屋が多くなってきます。森と家屋が一体になるような場所に出くわしました。 初めてだったのですが、ボーイスカウトにより森の道は整備してあるため、快適な散歩コースです。

左右は、神社の深い森です。その中に幅2mの雑草も生えていない、地道が続いています。 森の中を500mもです。森の息ずかい。そして森特有の香りがします。田舎では、毎日体験しいていた香りです。 最近出会っていない香りです。

森を抜けると神社にでます。神社は、この池800m×300mの中州にあります。 池の橋を渡って対岸へ。 <P> 対岸から100m歩くと、いつもの通勤コースです。家に帰って時計を見ると30分の散歩になっていました。 結構気分は、そう快です。夕飯を食べたら1時間寝てしまいました。ウーム。リフレッシュ。 最近の体調不良は、運動不足が原因だったようです。明日も元気で出勤しよう。

1999年07月13日(火)[ パソコン中心 ]


腕時計は、本日朝から調子が悪かった。午後1時には、液晶の時刻表示もしなくなってしまいました。 これは、困った。時計が無いと、会社に遅刻するのです。

本日1万2000円程度の時計を探しに行きました。いま使用している時計は、CASIOの登山用プロトレックです。 価格は、1万7千円。ベルトの交換は、5000円でした。

新しい時計を買いに行った場所は、日本橋(大阪電脳街)です。12000円〜14000円で良いのを見つけるべく30分間 ニラメッコ。 ひらめいたのは、3500円の腕時計です。液晶表示の時刻と日付、曜日のみ。形は、良いし。 これなら、14000円−3500円=メモリが買える。

でもって、メモリを買ってしまった。128Mbytes(pc100仕様)は、9455円(税込み)でした。 ダーメダなこりゃ。でも最近の欲しいと思う時計は、10万円以上します。正確なグランドSEIKOなどは、15万〜22万円 もします。一度この時計を使用していた事があります。1ヶ月間の誤差2秒です。NHKの時報とピッタリの時間なのでいつも ニンナマリしていました。

最近の時計の内部機構は、樹脂(エンジニアリングプラスチック)で覆われています。3500円の時計も18000円の時計も 殆ど変わりません。一時期は、温度計や月齢が出る時計を欲しがっていましたが、電池寿命が短いので最近は欲しくなくなりました。

5年間電池交換不要なら良しととしました。ただこだわったのは、ベルトです。金属ベルトは、嫌いです。ゴム製のも嫌いです。 でも皮のベルトは、1年しか持ちませんのです。 <P> 何となく本日感じたのは、「動かされる時」の予感です。予定の無い事が突然起きる。2ヶ月後がどうなっているか楽しみです。

1999年07月12日(月)[ ニーベルンクの指輪 ]


レコードでニーベルンクの指輪を聞いたのは、随分昔です。レコードの枚数は、ライトモチーフ3枚を含めると20枚組みのレコードです。 クラッシックレコードは、音楽に浸るよりもレコードノイズが気になって、よく交換を依頼しました。 いま持っているレコードは、4回プレスしたものがバラバラで入っています。全て揃うのに3年掛かってしまいました。 レコード店の店員さんには、「貴方は、芸術の解らない人」と言われましたが、レコードの品質管理は雑だとは思います。 品質の問題化どうかは、1年間で購入したレコードの30%に続けて3回プチプチと雑音の入っているものがあったのです。 芸術が解るか?という殺し文句は、品質をよくしてから言って欲しいと「レコード店」へは申し上げました。 芸術ね−−。

ニーベルンクの指輪は、ワーグナー作曲の歌劇です。演奏時間は15時間におよびます。 毎年ウィーンのフィエンザールで上演されています。旅行会社の方の話では、15時間を4日で演奏し、良い席は、60万円 (4日)だそうです。大体良い席は、日本人が座っているそうですが。

O栗さんから入手したジョン・カルーショーの著書「ニーベルンクの指輪」は、やっと先週読みました。東京転勤の時は、聖書と この本の2冊を持参していました。でも読まなかったのですね。 なんのき無しに、先週通勤で読んでいたら、止められずいっきに読んでしまいました。なぜ今まで読まなかったのか不思議です。 実は、ビデオの「踊る大捜査線」よりもこの本にドキドキしていました。

この本は、古本屋にも無いので、手に入れるのは無理です。よって、レコードデータだけは、皆様に お知らせします。

レコーディング・データ
キャスト

「ラインの黄金」
ヴォータン(ジヨージ・ロンドン)
アルべリヒ(ダスタフ・ナイトリンガー)
ローゲ(セット・スヴァンホルム)
フリッカ(キルステン・フラグスタート)
ミーメ(パウル・キューン)
ファーゾルド(ワルター・クレッペル)
ファーフナー(クルト・べーメ)
フライア(クレア・ワトソソ)
フロ−(ワルデマール・クメント)
ドンナー(エーベルハルト・ウェヒター)
エルダ(ジーン・マデイラ)
ウォークリンデ(オーダ・バルスボルグ)
ウェルグンデ(ヘティ・ブリユーマッヒヤー)
フロースヒルデ(イーラ・マラニューク)
ウィーン・フィルモニー管弦楽団/ゲオルグ・ショルティ

{ワルキューレ」
ブリユンヒルデ(ビルギット・ニルソン)
ウォータン(ハンス・ホッター)
ジークリンデ(レジーヌ・クレスパソ)
ジークムント(ジェームズ・キング)
フリッカ(クリスタ・ルートウィヒ)
フンディソグ(ゴートロープ・フリック)
ヘルムウィーゲ(ベリット・リンドホルム)
オルトリソデ(ヘルガ・デルネッシユ)
ゲルヒルデ(ヴェラ・シュロッセル)
ワルトラウテ(ブリギッテ・ファスべンダー)
ジークルーネ(ヴェラ・リトル)
ロスワイセ(クラウディア・ヘルマン)
グリムゲルデ(マリリン・タイラー)
シュウェルトライテ(ヘレソ・ワッツ)
ウィーン・フィルハーモニー管絃楽団/ダオルグ・ショルティ

「ジークフリート」
ジークフリート(ウォルフガング・ウィントガッセン)
ブリュソヒルデ(ビルギット・ニルソン)
ヴォータン(旅人)(ハンス・ホッター)
アルべリヒ(グスタフ・ナイトリンガー)
ミ−メ(ゲルハルト・シュトルツェ)
ファーフナー(大蛇)(クルト・べ−メ)
エルダ(マルガ・ヘフゲン)
鳥の声(森の鳥)(ジョーン・サザーランド)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団/ゲオルグ・ショルティ

「神々のたそがれ」
ブリュンヒルデ(ビルギット・ニルソン)
ジークフリート(ウォルフガング・ウィントガッセン)
ハーグン(ゴットロープ・フリック)
グンター(ディートリッヒ・フィッシヤー=ディスカウ)
ゲートルーネ(クレア・ワトソン)
ワルトラウテ(クリスタ・ルートウィヒ)
ウォークリンデ(ルチア・ポップ)
フロースヒルデ(モーリン・ガイ)
第一のノルン(ヘレソ・ワッツ)
第二のノルン(グレース・ホフマン)
第三のノルン(アニタ・ヴェルキ)
ウィーソ・フィルハーモニー管弦楽団/ゲオルグ・ショルティ
ウィーソ国立歌劇場合唱団/ウィルヘルム・ピッツッ

演奏時間
総合計875分35秒(14時間35分35秒)

「ラインの黄金」合計145分35秒

{ワルキューレ」合計228分45秒
第一幕 65分35秒
第二幕 92分00秒
第三幕 70分10秒

「ジークフリート」合計236分50秒
第一幕 82分10秒
第二幕 74分00秒
第三幕 80分10秒

「神々のたそがれ」合計264分25秒
プロログと第一幕 100分20秒
第二幕 66分55秒
第三幕 77分30秒
総合計264分25秒

著書「ニーベルンクの指輪」
録音プロデューサの手記
1969年11月20日第一刷発行
著者:ジョン・カルーショー
訳者:黒田恭一
株式会社音楽之友社

1999年07月11日(日)[ 踊る大捜査線 ]


「踊る大捜査線」は、先週2回出てきました。 「おじマク」の掲示板とNHKの映画会社再生の話です。 なんとなく面白そうでした。とくに「事件は、会議室じゃない。現場で起きてるんだ。」の言葉がすきですね。 でもって、土曜日にレンタルビデオを借りてきて、土曜と日曜に見ました。ビデオTVを2回もみることは、 殆どありません。でも2回みてしまいました。最後の方のシーンは、「Xファイル」のモルダーとスカリーの のりでした。

一番関心したのは、犯罪を犯した少年たちの雰囲気です。イマスネー。こんな雰囲気の人。 でも、恐いというより、可哀相だと思います。オヤジに殴られたとか多分無いだろうと。 人間的付き合いと言うか、心の芯に触れる付き合いというか。

同時に借りたのは、「Xファイル・ザ・ムービー」、「釣りバカ日誌・9」全部楽しかった。 でも2回は、見ませんでした。 ナンダロナー。踊る大捜査線。

1999年07月11日(日)[ 13125円で修理完了 ]


イヤー。久しぶりにMacを触りましたよ。 HDDの交換とOSのインストールです。

HDDは、AC14300(Western digital)の4.3Gbytesを選択しました。 DT233のHDDは、Western Digital製がついていましたから、安全のために 同一メーカー品にしました。 HDDは、本当にやすくなりました。TWO TOP 日本橋の価格は、13,125円(税込み)でした。 雑誌(7月15日号)では、13400円(税なし)でしたから、1000円やすくなっていました。 会社の帰りに日本橋によったから、閉店間際にセーフでした。

「弟子一号」からは、パソコンは土曜日に帰ってきます。との連絡有り。抜群のタイミングです。

MACは、PC/AT互換機(DOS/V機の別名)とちがって筐体の開閉は、ネジが使用されていません。 HDDのマウンターをはずすのに5分考えてしまいました。良く見ると「スライダーレバー」が見えたので 引っ張ってみたら、あっさりと外れました。ふーーん。マックってのは、良く出来てるなーー。 一社でハードを作れるからかな。でもNECの国民機は、こんなにスマートでは有りませんでした。

HDDのケーブルは、コネクタが圧接方式のため、ケーブルを引っ張ると接触不良となります。 千枚通しでコネクタハウジングを引っかけて抜き出しました。

HDDを交換したら設定があります。元々のHDDと種類が違いました。HDDの密封袋には、 設定ピン位置が印刷してあるので捨てない様にしています。 HDDのマスター、スレイブ、オートの切り替えは、全てピンを抜いて「マスター」に設定しました。 引き抜いたピンは、ピンの1本にのみ刺して、紛失しないようにします。 後は、スライダに取り付けて、カチャン。以上でハードり設定は、完了です。

DT233の電源をONすると、画面は白色の画面とマウスカーソルだけがでます。 再度、MAC−OS8.1のCDを入れ、「C」キーを押しながら電源ONするとCD-ROMだけが 認識されています。フォルダーの「拡張機能」から「ドライブ設定1.3.1」を働かせて、HDDの 1パーテーションで初期化を行いました。HDDの初期化によってファインダーにHDDのアイコンが 現れます。

後は、MAC−OS8.1のインストールです。 30分で完了しました。

後のアプレケーションと、ドライバのインストールは、「弟子一号」の仕事です。

アプリのインストール前に追加の128RAMを取り付けました。

無事にインストールも完了しました。HDDは、4300回転/分から5300回転/分に変わったのと メモリが288Mbytesとなった結果、イラストレータと、フォトショップの処理速度が 早くなったようです。「弟子一号」は、メモリ追加とHDDの交換で約3万8000円かかりました。 でも、早くなったとオキニイリでした。

でもままに、触らないと忘れますね。 MOは、フォーマッタのB’s Crewを入れないとアイコンがでません。SCSIケーブル 接続だけでは、アイコンが現れないので少しあわてました。

1999年07月09日(金)[ 14万円、ふーーん ]


ネヨカナーー。思っていたら「弟子1号」から電話が来た。
@Power MAC G3 DT233の故障原因がHDDに起因するとの事。
A修理代金は、14万円。
B製品無償修理期間内であっても、HDDは対象外。
C14万ならiMAC233カラーが買えるががどうしょう。

私の回答
@Power MAC G3 DT233のHDDは、DOS/V用のHDDと同じで入手は簡単。
ADT233のHDDは、4GbytesのWestern Digital製品。
BAC14300(Western digital)の4.3Gbytesなら13,125円(税込み TWO TOP 日本橋)
Cフォーマットは、CD−ROM起動で「ドライブ設定1.3.1」で可能。

「弟子一号」
@修理は、断ります。HDD以外の故障は無いか再確認します。
A日本橋で会社の帰りに買って来てください。

私は
了解。

HDDの価格は、ここ半年で1/2.5〜1/3になりました。
MACの修理(ソフマップ)は、まだ価格改定されていないようです。
売り上げが改善したAPPLE製品は、まだ修理ののレベルは完全に 改善していないと、感じました。

HDDの交換の報告は、又後日。

1999年07月08日(木)[ 結婚する前のはなし ]


今回は、私が結婚するとき、仲人さんに渡した自己紹介文章です。 あの頃は、楽しかった。友達も多くて。
でも結婚式に出席した人は、離婚したのは、私を含めて4名。 精神をわずらったのは、3名。亡くなった人2名。疎遠になった人、多数。 人生色々あります。でも、これ読むとすぐに昔に戻って私は、元気になります。

子供時代の私は、あまり友達も無く、幼稚園に上がるまでは、200m離れた お堂(じいさん、ばあさんが集まって御詠歌を歌う為集まる場所。 数年前まで 田舎は土葬でした。 土葬の場所には墓石は無く、村の65戸分墓石が有る場所) より東に行きませんでした。

私の家は、村の西の外れにあります。 前の家は、M浦さんで昔家老職 の家柄でした。 その家は3方竹薮に囲まれ一辺100mあります。人の 住んでおられる所は、私の家からは20m南です。 
兄は、この家の当主である大学の先生に英語をならっていました。  お陰で兄は、英語がはなせます。よく大阪で中国人に英語ではなしかけられ たことがあるそうです。兄は中国系の顔立ちです。でも外国旅行の経験は ありません。

このM浦さんの竹薮には、狐が住んでおりました。 私が中学、高校生の頃 夜、家の二階で勉強していると狐が鳴きながら家の周りを回っていしました。
付近は、我が家の前の三浦さんと裏のタンス屋勤務のKさんだけで他の家は水田を 隔てて100m離れています。 いまでも夜の7時を過ぎると真っ暗になり、 人通り(田畑への行き帰りの人)もなくなります。 以前は物音もないところで した。 今は、300m離れた所を中国高速道路が通ってうるさく成りました。 そのため狐に会うことも無くなりました。

またM浦さんの竹薮には薮蚊と雀がが大量にいました。夏に成ると勉強部屋 の障子が黒く成るほど薮蚊が飛んできます。 
また秋になると数千羽の雀が、夕方薮に帰るために空が雀だらけになる事も有り ました。

家の周りの水田では、田植えが終わると緑の絨毯になります。水田を渡った風は、 涼しく、夏の昼寝の微睡みは、格別です。 父を尋ねて来た電気屋さんが縁側で 気持ちよく昼寝をしていました。 誰も家に居なかったので帰って来るの を待つ間に眠ってしまったのです。
そんなのどかな田舎に私は、住んでいました。

私は、中学生に成るまで殆ど友達の無い引っ込み思案のこども出した。
しかし落ち着きはまるでなく、小学一年生のとき椅子にくくりつけられて廊下に 放り出されたことが有ります。 
父は、物を粗末にすることを嫌うひとです。 あるとき私の機嫌が悪く、父の買っ てくれたグリコキャラメルを捨てた事があります。 普段おとなしい父ですが、 とたんに私を捕まえ柿の木に縛りつけました。 家には柿木が4本あります。 それぞれの柿木に1回ずつは縛られたとおもいます。 縛られるたびにM浦さん のおばあさんに助けてもらっていました。 助ける方法は、父へのとりなしです。 でも最低1時間は許してもらえませんでした。 その間、私は大声でないていま した。そのときの発声練習が効いたのか今でも声が大きいといわれます。 

 小学校の頃の思い出として兄に連れられて日曜学校に参加したことです。  3〜6年生の頃、村の一軒でプロテスタントの牧師さんによる日曜学校が開かれ ていました。 どんな話を聞いたか忘れました。 でも今の私がキリスト者で いるのは、そのせいかもしれません。
小学生の私の家事手伝いは、ヤギの餌の草刈りと、手動のポンプで炊事用の水 を汲み上げる事です。 ヤギの香ばしい乳がおやつになり、水汲みが運動でした。 運動といえば、小学校への通学です。
通っていた小学校までは、子供の足で1時間かかります。今では2.5Km は、何でもありませんが小さいときは遠い道程でした。 遠い道程は、中学生に なっても変わりませんでした。 中学校は、村の西の川の対岸に有ります。  対岸の中学校までは、直線で1Kmですが、コの字型に通学する4Kmでした。 高校は、工業高校に行きました。 勉強が嫌いだからでなく電気の勉強がしたかっ たからです。 これも家から遠く片道12Km有りました。 自転車で1時間かか ります。 自転車で通学しましたが3日目からは、尻がはれあがり椅子に尻を 降ろして自転車をこぐことができませんでした。 何とか腫れが引いたのは2週間 してからでした。  でもこのお陰でいまの私の骨格と体力ができあがりました。 この中学生のころから電気に興味を持つようになりました。 廃品回収業者に行って壊れた機械やラジオなどを買って来ていました。 また学校 の図書館で電気に関する本をかりていました。 図書館にはラジオの回路図の本が 1冊だけありそれを毎週連続で借りました。1年かけて本1冊をまる写しした事が 有ります。 ほかには工作部に入り森田先生の指導の元で木工工作を楽しんでいま した。 そのころからようやく友達ができて来ました。

娯楽は、ラジオ番組でした。 中学生の頃まで家にはTVが有りませんでした。 村の中で最後にTVを買った家です。 だからよく他所の家にTVを見せてもらい に行きました。 でもM浦さんの家には、あまり行きたく無かったです。なぜなら 帰りが怖いからです。 怪談番組の終わったあと20mの距離が怖くておばあちゃ んによく送ってもらいました。
中学生になってTVを家でみる事が出来るように成りましたが7時59分で終わ りです。 8時からは勉強をしていました。 特に原潜シービュー号という番組が 見たくて仕方無かったけれど1回程度しか見たことがありません。 いまでも見た いとおもいます。

私が勉強を始める時間に、父も自分の仕事である道路補修の図面を出しては、 工事の進行状況報告書の作成や、費用の計算を五つ玉の算盤でしていました。  中学生の頃にようやく父の仕事は何か意識し初めました。 

父に関する事で知っているのは、祖父が杜氏であった為、若いときは杜氏をして いました。 昔の田舎では農繁期は農業、農閑期は播州杜氏として酒作りの出稼ぎ でした。 でも父は、20歳位で杜氏を止めています。 一定収入の取れる公務員 として兵庫県の職員になりました。 その頃は、公務員が目ずらしかったようです。 父の趣味は、機械いじりです。 機械が好きで20才代で発動機を3年分の給料を 叩いて買ったそうです。 機械の分解修理ができるので脱穀の秋には、村中の修理 依頼を引き受けていました。 いまでも中古のトラクタを買って来ては分解組み立 てをして新品同様にしています。
公務員としての仕事は、道路の補修作業です。 これを40年間定年まで努めま した。 彼が自分の仕事に誇りをもっていました。 父の仕事とは兵庫県全域の県 道の修理でした。 55才の時には、特殊大型の免許証も取るほどに一生懸命努力 しています。 父の業績は、まだお役に立つており道路の境界線が不明に時は、父 に尋ねにこられます。
  父の仕事に対する思いは、兄に男の子が生まれた時、その孫に“道雄”と名付け ました。 まじめに仕事をした証しとして国から、勲七等を受けたのが、今でも誇 りにしています。 K栗さんとU窪さんが昨年1月に母の墓参りで訪ねて頂いた時 も目を細めて自分の仕事と受勲について話していました。 今年は、YK(元嫁)さんを つれて帰ったときは、その受勲と同時に、母の内助の功績を称える総理大臣佐藤 栄作氏より戴いた表彰状について目を細めて話していました。

 父の趣味は、菊つくりです。 農閑期は、菊作りをしてたのしんでいます。   父菊作りは、賞状目的でなく人を楽しませるためでした。 そんな父の能力のため 定年後は、滝野フラワーセンター(播磨中央公園の名称)で働いていました。
展示会に出さない父ですが、昨年は、神戸新聞社社長賞を取ったようです。 

 この頃の母の思いでは、母がもう少し、父に優しければと常に思っていました。 母は、気の勝っている人でした。 気の優しい父に対して、気の強い母親で夫婦と しては、バランスして居たのでしょう。 母は私には優しかったのですが、父に 対するのと私に対するのとでは、バランス的に何かしっくりしない気持ちがあり ました。
母親が父親より強いという世間とは逆の中で育ちました。 父親のイメージを明確 に出来なかった為、結婚が遅れたのかとも思って居ます。

高校は、工業高校を選びました。 工業高校は電気を早く勉強したいためでした。 高校の頃に一番楽しかったのは自分でラジオを組んだり、ステレオをつくったり TVの修理をする事でした。 TVの修理では、「昼寝をしていた電気屋さん」に TVのサービスマニュアルをよく借りにゆきました。 時々、危険な失敗もあ ります。 600Vの+B電圧とシャーシを右手で同時につかみ中指に電流で 小さな穴をあけたり、スピーカーの取り付け穴を小刀て明けているとき手が 滑って左親指を切ったことも有ります。 小刀の傷は、親に心配させてはいけ ないとおもいバンドエイドを張っただけ出した。 すじを切ったらしく傷は一週間 で房がつたけれど1年間親指はまともに動きませんでした。 父親も似たようなも ので若いとき鎌で左指を誤って切り落としあわててくっつけて藁で縛っただけの治 療すましたそうです。 だから父の左手の指1本が先から10mmくらいで変な 角度でくっついています。

このころの私の勉強部屋は、農機具を入れる納屋の2階でした。 このころに 狐や壁一面の薮蚊と友達でした。 でも家族はだれも私の勉強部屋には、入って 来ませんでした。 なぜなら配線材料や、金属くずが散乱しており危なくて入れ なかつたのと下手に掃除をしたら、あの部品はどこ、ここに有った部品はどこと 母親を追及する私でした。

兄を兄として意識し始めたのは高校生2年生の頃でした。7歳年の差があると小 学校に私が入れば、兄は中学。 私が中学生になれば、兄は大学生で家を出ていま した。 でも高校3年のとき、兄は修士課程を終わって、兄の世帯道具が家に帰っ て来ました。 その中にレコードプレーヤーとクラッシックレコードが10枚入っ ていました。 私に取っては、兄を通しての文化の流入です。 でも兄は、すぐ 淡路島の分校に教師として赴任して行きました。 でもそのときから兄のレコード は私のステレオで毎日聞いていました。
レコードは、オペラや18世紀終わりの作曲者の物でした。 普通のひとがモーツァ ルトやショパンからなのに特種な分野のクラッシック音楽から聞きはじめた訳です。 淡路島に行った兄は、淡路で伴侶を得る人生を歩いていました。 小学校で日曜学校で神を学んだ私ですが高校のころは、すべての事が計算で出せる とおもっている無神論者でした。 また人の情緒が解らない変人でした。
読んでいた本は、電気理論の計算式ばかりでした。

高校の楽しい時も終わり会社に就職して家を離れました。 
半導体の仕事を希望したので奈良の配属に成りました。 今から20年も前の話で す。  入社の次の年に大阪万博がありました。 初めての自分の給料で、自分の欲しいも のを買う体験をしたのが万博でした。 田舎に住んで居たのでまだ高校を卒業した 時のままの丸坊でした。 頭の毛を延ばし始めたのは入社後2年してからです。 そのころも背広やジャケットの買う所も知らなかったので学生服のままで居ました。 奈良の町中に出るときでも怖い人に声を掛けられるのでは無いかとびくびくして 居ました。
そんな私に新しい世界を教えてくれたのが万博です。 外国がある、洋食がある フライドチキン、パイナップルのスティックなど今まで経験したことの無い感動 でした。

会社の寮では、GAKUさんと出会いました。 何となくお互い変人なんでしょう 可でもなく否でもなく付き合って居ました。

寮に居ても本を買うでも無く、音楽を聞くのでも無く会社と寮の行き帰りの毎日 3年したころ人にだまされて変な宗教団体に知らない内に入信させられました。 すぐに信者を止めましたが気持ちはすっきりしません。
憂さを晴らすため東向北通りにあったエロ映画館(今はない)に一人で 行っての帰り教会を見付けたのが、カトリック教会でした。 のんびりした ニュジェント神父さまが相手をして下さいました。
別に信者に成るでなく、青年会に身をおくだけでまじめに来ない求道者としてたま に教会に行く人でした。 これが私の20才の頃でした。  その頃教会には、若い鈴木神父さまがおられました。 この神父がリーダーシッ プ講座を開いていました。 半年に渡って毎週1回開かれておりこれに参加するこ とで定期的に教会に行くようになりました。 この時に知り合ったのがK栗さんです。 青島幸雄に似たキザな警察の人でした。 

私は、まだ信者には成る気ありませんでした。 御ミサに参加しても見えない者 に向かって祈る不気味さが先にたって気持ち悪い人の仲間に入るのは嫌だと思って 居ました。

     この20歳の頃から体調をくずして何もする元気のない人になってしまいました。 無気力無感動でした。 どう努力しても自分の生活は変わらないものです。 このままでは、人生お仕舞いと思い、大阪に遊びに出ることと、本を読む事を 始めました。 文学小説は今でも嫌いですからSF小説を読んで居いました。 でも転換期は、ありました。 たまたま本屋で立ち読みしたのが「邱永漢全集」で す。 商売の話、料理の話株の話などの6冊ハード装丁の本でした。 そこから株 に興味を持ち貯金していたお金で4000株のシャープ株を買いました。 その頃 はまだ200円〜240円でした。 日本経済新聞も読み始めました。 日本経済 新聞に「社会資本」という言葉があり何の意味かまるで解りませんでした。 こ のままでは一般常識も無い大人になるだけだと思い、奈良短期大学(夜間)に入り ました。 25才からの勉強です。 同時に大阪にはレコードを探しに、そして旨 い紅茶を探す為に歩きまわる事をはじめていました。

紅茶にで会う切っ掛けは、紅茶の味を本で読んでも解らないのがショック でした。 解らないままで終わりにしない性格から2年掛けて旨い紅茶を探ました。 その結果4回スリランカにつれて行ってくれた「ティーハウス・ムジカ」に出会い ました。

また同じ頃レコード店の「ダイガ」(現在大月楽器店に吸収 されています。)で名曲といわれるクラッシックレコードを 集め始めました。 
恋する人は居ましたかと聞かれたら「片思いでした」と答えます。 レコ ード店の女性でした。 3年間で500枚もレコードを買いました。 25〜28までの3年間でレコードとオーディオで、給料、ボーナスの全てをつぎ 込みました。 大体250万くらいです。 十数年前の話です。
今でもその装置で音楽を聞いて居ます。(装置とレコードはまだあります。)

28才の春、土地を買ったので道楽はお仕舞いに成りました。
 

この頃は、私が結婚しないということで母は、躍起になって居たようです。でも  私は、体調をくずすと、太った女性が好きになります。 元々の私は痩せた女性が 好きでした。 二つの好みの狭間にいる私には、好みの女性が判別出来ません。
親にせっつかれてもただ神経をすり減らすだけです。 25才の時に無理に見合い をさせられて体調を1週間狂わせた事があります。
ただ自分の思いを遂げたい母とは、段々疎遠ににり25から29才まで一度も 家に帰りませんでした。 何で親なのに子供を解ってくれないのかと思い続ける 毎日でした。 女性が母親と同じなら結婚しない方が人生は楽しい(一人の方が 苦しみは少ない)と思う様に成りました。 此のころから結婚はしませんと言う 様に成りました。

大学を出て、土地を買った借金があってお金が無くての毎日でまた寮と会社の 往復の人生が帰って来ました。

たまに「ティーハウス・ムジカ」で知り合ったY氏と夕食会を開くのが楽しみ でした。 彼もS製薬に努めながら夜間の大学に行って居ました。 彼と 25才の時から始めた夕食会(今風に言えば、グルメの会)はまだ続いています。
(4年前から彼とは疎遠になりました。) 25才の若造が大阪の北新地で夕食会を開けたのは、「れすとらん・れまん」 (3年前から閉店)に 服部さんというマスターのいたお陰です。 でも1万円以上のワインは、まだ 身分不相応として飲ませてもらえませんでした。 でも2人で3万の夕食会費で 有るのにかかわらず1万5千円のワインを出して味が解るか試していたようです  最近ワインラベルが古いファィルの中から出て来ました。 「シャトー・ベイシュ ベル」でした。 服部さんのほくそ笑みが解ったのです。
服部さんから飲むワイン価格の制限が無くなってから、まだ5年しか経っていま せん。

O栗さんとも25〜26才の頃に出会いました。 「ティーハウス・ムジカ」で です。 ジョンカルーショの著書で「ニーペルンクの指輪」(黒田恭一訳)を2年 間探していたのを彼が2500円で譲ってくれたのです。 クラッシックファンに は、貴重な本です。 私が東京在住の時、講演会の合間にこの本に翻訳者の黒田 恭一さんにサインを頂きました。 翻訳者自信もこの本を持って居ないとの事でし た。(O栗さんとは、3年前から付き合いがなくなりました。)

そんな28才から32才でした。 手に入れた土地も半分だまされた 様な物で、風致地区3種の為に、農家の人にしか家が建てられないのです。 あま りついてない頃でした。 ついてないと思える時が、人生の成長期なのかもしれま せん。

洗礼(キリスト信者になること)は、30歳の時です。 洗礼名は“アブラハム”。 10年間教会に通ってもキリストが解りませんでした。 解らないから体当たりす るしか方法は有りません。 『キリスト信者になりますが、次の週から教会に行か ない。もしキリストが居るなら、私を教会につれ戻すだろう。』と考えて洗礼を受 けました。 きっちり2年後、神は私を連れもどされました。

そして待って居たのは、私が大人として成長するための転勤でした。 4年間の 東京生活で毎月1回は、不思議なことに出会いました。 普通に考えると何でも 無いことです。 でも人には、神様の成される事として、深く心に響く時がありま す。

32才の7月、K栗夫婦より会社の寮に居るのは良くないとの事で西大寺に引っ 越ししました。 家を見付けて下さったのは、吉田美枝子さんです。 彼女はK栗 さんの友達です。 吉田さんのは、引っ越し先の100mの近距離でした。 大家さんは、瑞景寺さんです。 その家は、元一刀彫のアトリエとしてつかわれていた場所で、 どなたにも貸しておられません でした。 私が借りられたのは中学生が入ってたばこを吸って居ので、管理する 人が入り用だつたからです。

私の住んでいたのは、カトリック教会の西大寺地区になります。 その地域の人 洋子さん、オルガン担当の清原さん、式次第のワープロファイルを貸して下さった 棟方さん、ヨハネ・ベル神父が住んで居ます。
西大寺駅近くに「弟子一号」が居ましたのです。(弟子一号は、 この頃パソコンとは無縁でした。)

7月に西大寺に引っ越した私は、10月に東京転勤になりました。 12年間 技術の部屋の中で仕事をしていた人間には、外の空気はどんなだろうと不安な気持 ちが一杯でした。 それよりもショックだったのは、片思いのレコード店の女性が  同年5月になくなって居たのを知ったときです。 亡くなった原因は、聞きません でした。
彼女は、「マタイ受難歌曲(バッハ作曲)」が好きでした。 それもカールリヒ ター指揮のをです。 もちろん私もその曲を持っています。 なぜなら500枚の レコードの内200枚がバロック音楽で彼女に選んでもらったものでした。 彼女の亡くなった5月になると「マタイ受難歌曲」をききます。 でも3年過ぎ るまでは、3分以上は、胸が詰まってきけませんでした。
 

転勤して行った東京に慣れるのに1年半かかりました。 住んで居たのは横浜で す。 失意の底にいても親は、一方的に見合いをしないかといってきます。  ほとんど断って居ました。 結婚にに疑問を持って居る私には、やはりむりでし た。 1年経ったころK栗さんから、奈良カトリック教会で「青年の為のエンカ ウンター」があると誘いをうけました。 
4日間のディスカッションが有りり各自の心を話し合うものです。 自分を見つ める4日間です。 最後の夜「両親からの手紙」受け取りました。 それは参加者 全員が家族から受け取る優しい手紙です。 ほとんどの人が両親からの手紙で涙し て居ました。  この手紙で私は、親の暖かさがわかりました。 そのとき34歳でした。 それから真面目に見合い見合いをしました。 でも見合いは駄目でした。相手に断 られました。
すこし心苦しかったです、でももっと辛かったのは「見合いを断られました。 のはお前が悪い!!」と母に無条件に言われことです。

せっかく家庭が解りかけて着たのですがまた私の気持ちは、振り出しに戻ってしま いました。 その日から2年半また家に電話せず、家に帰らずの孤独な私ににって 居ました。 親というのは何なんですか。 子供を信じてくれるのが親じゃないの ですか。 私は25歳の時に初めて見合いをし、体調を崩しました。 結婚を決意 しない私を母は、ヒステリックになってせめたてます。
 そのとき私の言った言葉をおもい出しました。 『お母さん、あなたが死ぬまで は私は、決して結婚しません。』。 
馬鹿といわれても私はかまいませんし、親不孝と言われてもかまいません。 母と私は、余り相性はよくありませんでした。 高校の時から 母の女性としての優しさに疑問をもって居ました。 

すべてに疲れはてました。ただ慰めてくれたのは、大阪の町と「ティハウス・ムジ カ」とスリランカです。 36歳のに初めて、スリランカに行きました。
スリランカに魅せられてしまったのです。 ツアーには、添乗員は居ません。  仲間とスリランカについた後の一週間は、一人たびです。 英語だけ話す運転手と 二人だけの一週間。 英語を話さないと食事も出来ないカルチャーショック が私を変えてしまったのです。 キャンディの仏歯寺で出会ったバイブレーション も忘れる事は出来ません。 4回のスリランカ行きでキャンデを4回尋ねました。 毎回このバイブレーションに出会います。(この経験は、 後日Fright Cornterにいれます。なおバイブレーションは、あんま機やオトナのオモチャ では、ありません。)懲りないで5回目のスリランカへ新婚旅行します。

東京にもつかれました。 会社を止めるかと真剣に1年間考えました。 転勤で また奈良に帰ってきました。 6年前です。

奈良に帰って来て私の疲れを癒してくれたのは、会社ではなく友達と「ティハウ ス・ムジカ」と夕食会と4回のスリランカ旅行です。  仕事は、経験を生かしての取り扱い説明書作りです。 自分の感性で仕事が出来 ました。

奈良にかえって2年目に母は病気で入院しました。 月に2回は、見舞いに行きま した。 親子で一番話ができた時間だったかもしれません。 でも私の心は疲れて いました。 家に居るときにかかって来る電話を取ったことがありません。  母の危篤の電話も取らなかったくらいです。 電話が怖かった。 

昨年母の三回忌も過ぎました。

最近の3年間で自分を取り戻ました。 それは、教会の裏庭作りでです。 K栗さん、U窪さんと私の3名で、瓦礫の山だった教会の裏庭に日本庭園を作る 事でした。 2月から10月まで毎週土曜、日曜は朝8時から夜9時まで土いじり をして居ました。 このお陰で自分を取り戻す事ができました。 
 また兄とは、高校生600人の為に校内放送用のカセットテープを作った事で 心の接近ができました。 作ったテープの本数は3年間で60本を越えて居ます。 曲目を知らせる為の“放送部だより”も毎月発行しています。 テープ1本作るの に12時間掛かります。 テープ用音楽の元は、FM放送と手持ちのレコードです。
年間の人件費、テープ代で80万円に近くなります。(80万は賃金換算で です。) ボランティア活動として情熱を注いで居ます。 でも昨年12月から中 断して居ます。 結婚準備のためにテープ作りの時間は無くなりました。 学校の 放送用は、7月までストックが有ります。 結婚したら音楽テープ作りを手伝って もらえると期待しています。
私の仕事は、自動機械の制御装置に関する仕事です。 東京で は、自動車会社に入り込んでシステム設計をして居ました。 いまはその経験を生 かしてトラブルが起きたときの対外的な窓口業務をして居ます。
私は、一つの仕事に慣れるのに最低1年半かかります。 余り器用な人間では有 りません。
以上で私の周囲の友達を含めての説明は終わりにしたいと思います。 

1999年07月06日(火)[ おとこヤモメにうじが湧く ]


いやーー。本当でしたね。この言葉は!!。 生ごみの三角コーナー底にうじが湧いていました。 ダイハッケンヤーー。私は、江戸時代の人と同様に前近代的なのですね。

うじが湧いたのは、生ごみを残していたのです。 先週から2週間雨でした。だからハーブ畑を掘り返して入れるのができながったのです。 でも先週の水曜日には、生ごみにお湯をかけて殺菌消毒したんだけど。

午後からは、ハーブ畑の草引きでした。 1時間半がんばって、美しくなりました。 トマトは、実を6つ付けています。 少し赤くなるとカラスにつつかれるので、袋をかけました。 近所の人からのアドバイスです。 うれしかったのは、生ごみの中からトマトの芽が出ていました。 1ヶ月前にトマトを捨てた場所からです。 南京の周囲の草引きをしていて発見しました。

草引きの結果、ハーブが極めて元気なのを確認しました。 バジルは、摘芯(大きい芽をつむ)状態にまで成長しました。 今年は、手抜きのバジル栽培ですが、極めて順調です。

ところろで三角コーナーの生ごみは、ハーブの畝に埋けました。 勿論全てをです。 いくら私でも、珍味としては頂いていまけん。 書いていて、気分悪くなってきた。 このへんで止めよ。

でもね、食事の生物は、トマトなどのサラダ用野菜だけです。 他は、全て熱を通します。 ここ14年間自炊をしていますが、食中毒はありません。

半年経過した、明治ブルガリアヨーグルト(砂糖等の添加物なし)とか 3ヶ月経過したかりかりに乾いた納豆とかも美味しくいただけるので 体丈夫という意見もありますが。

冷蔵庫は、引越し時に扉のパッキンを交換したので多少冷え過ぎです。 刻みねぎは、先日凍っていました。

いずれにしても、梅雨どきです。 体には、注意したいです。

1999年07月04日(日)[ パソコン故障 ]


久しぶりに弟子一号は、電話(7月3日)をしてきました。
『パソコンが動かないんです。画面で小さいMACの画像がでたままです。どうしましょう』 様子を聞く範囲では、マックは重傷の様です。
MacOS8.1のCD−ROMと私のパソコン(MT266)を持参しました。

CD−ROMから起動しても、HDDを認識しないのです。CD−ROMのアイコンは、出るけれど ファイル操作ができません。
仕方が無いので、周辺機器わ全て除去しても状態は同じでした。

対策は、私のMT266を弟子一号に使用いただくことにしました。
弟子一号のDT233は、ソフマップクリニックへ本日持参することにしました。

まずソフマップへ持参する前に行った事が有ります。
@不具合の発生した、状況(故障の始まりの様子)をレポートにしました。
A不具合と判断するにいたった状況も記入しました。
B周辺機器の交換(又は取り外して)して動作しないことを確認する。
CHDDからの起動が出来ない事をメモする。
DCD−ROMからも起動出来ない事を確認した。
E内部のメモリ、CPUの接触不良が無い事を確認した。
F私のDT266で周辺装置を接続した場合、正常動作することを確認した。
GFDDは、起動時に排出されることを確認した。

以上の内容から、弟子一号のDT233は、故障が断定出来ました。
断定した内容は、報告書としてまとめました。
保証書は、大切に保存されていました。
製品保証期間は、まだ4ヶ月残っていました。

以上のことから、ソフマップクリニックへは、本日持参しました。

故障内容の報告書、本体、保証書を全て持参した結果、ソフマップクリニックに依頼 しての書類作成等は、5分間で弟子一号が完了させました。

DT233が修理完了するのは、3週間先となります。
修理では、消耗部品(HDD、FD、CD−ROM)は、対象外となるそうです。 場合によっては、HDDの交換が必要になるとの事。 6GbytesのHDDは、最近15000円以下なので心配は、なさそうです。

弟子一号は、初めての故障で落ち込んでいました。
でも状況は、考え方一つと説明しました。
@ボーナスが出た後、故障した。
A保証期間は、まだある。
B代替えパソコンは、ある。
C不具合状況を半日で処理できる、パソ友がいる。

弟子一号は、極めてラッキーな状態であることを理解してくれました。 立ち直りが早かった結果、HDDに負担をかけないためにと『メモリ128Mbytes増設 します。』と言うまでになりました。 DT233(32M+128M)でも、イラストレータとフォトショップを同時にファイルを開く事が出来ない。と

弟子一号は、私のDT266をメモリ288Mの状態で7月4日から3週間動かす予定です。

うっとうしい故障は、決断して早めに処置するのがよろしいようです。 ちなみに、メモリ128(旧PMG3用)は、中古で22400円でした。半年前は、16000円だったのに。 旧のPower Mac G3は、部品を含めて品薄のようです。 メモリ基板も最後の一枚でしたから。

1999年07月03日(土)[ 動かされる時 ]

今日は、Fright Cornerの文章を作っていました。 怠け者の私は、何かに動かされないと、行動を開始しないお話です。

1999年07月02日(金)[ どくだみの葉 ]


本を読むと私は、試したくなる性分です。 先週日曜日に古本屋で「美味しんぼ」を買ってきました。 その中にタイ料理の話が出てきました。

タイ料理では、「レモングラス」、「ペパーミント」、「どくだみ」が使われるとの事。 とくに「ペパーミント」や「どくだみの葉」は、生食されるらしい。 『ふうーーん。どくだみ。ネ。』

でもって、昨日は、寝る前にどくだみの葉を2枚齧ってみました。 おやーー。ほんのりレモン味でした。

本日は、バジルの葉とどくだみの葉を夕食にしました。 味は、バジルの方がキツカッタです。 結構、どくだみは、食べられますね。

食べてから、インターネットで検索して、毒物で無い事は、確認して 一安心です。 健康増進ようの漢方薬や健康茶としての検索結果はでました。 食用危険の内容は、ありませんでした。

毎日食べようかなと思案しています。スーパーの野菜は、高いが どくだみは、庭にたっぷり生えているから、料金0円で良いな。 朝食には、人目があってダメですが夕食にはもってこいですね。

庭の草引きにもなるし、健康にもよさそうだし。 当分、バジルとどくだみを食べてみようと思います。

考えてみたら、ハーブの方が味は、きついですね。

今日の絵は、どくだみのつもり。絵の入手が出来なかったので 自分で描いてみました。 どくだみで、腹痛になってなければまた明日お会いしましょう。
サヨナラ。サヨナラ。サヨナラ。

「私の映画の部屋 (淀川長治 文春文庫)」を読んでたので また影響されてます。では、でわ。

1999年07月01日(木)[ アー、ぼけぼけ ]


最近私は、規則正しい生活をして、極めて血圧が正常になりました。 医者には、最近薬をもらっていません。 血圧は、極めてメンタルな要素があります。

昨年は、カラダガタガタで7月から血圧の薬を服用していました。 その結果、急に血圧が30mmhg以上一挙に低下したものだから 極めて悲観的な生活をしていました。 何をしても、元気がでないのです。

『先生よ。この状態が続いたら私は、自殺しそうです。』
でもって、医者は、別の薬に変えてくれました。
今度は、極めて『頭痛持ち』になりました。
『先生、これつらいは。仕事出きまへん』
でもって、3回目の薬に換えました。
『先生、最近ね食欲無くなりました。オレンジジュース一杯とおかき一つまみで夕食終わりです。』
でもって4回目の薬に変更。

『先生、最近血圧が低くて、調子良いですわ。低くなったから薬減らして下さい』
でも医者は、『しばらく様子を見ましょう。そして体重を減らしましょう。』
確実に血圧は、下がっているのに、1ヶ月しても薬の量は、減らしてくれません。
以前より血圧が低いため、何もチャレンジする元気が出ないのです。
薬の服用からすでに8ヶ月です。
半分人生放棄したような、気分です。

で1ヶ月しても医者は、薬を減らしてくれません。 4月のCEマーキングで筑波市に行ってから『薬がなくなったので、死んでもええわ、自分の人生だから』 と薬の服用を中止しました。 その代わり、血圧は、元にもどってしまいました。 4月から6月中旬までは、体がつらかったです。

逆にやる気は、出てきました。自分に架した義務は下記です。
アルコールを控える。
塩分を控える。
豚肉料理は、中止。
朝夕の通勤は、20分歩く。
食事は、3食とる。
野菜を沢山食べる。

最近の血圧は、献血が出来る値までに低下しました。 薬なしで、血圧を低下させた場合、悲観的な気持ちにはなりません。 昼頃までボーっとしてますが、頭の回転は良いです。 でもポカは、やります。 昨日の通勤電車では、「準急」で大阪まで行ってしまいました。 「快速急行」より通勤時間が10分長くかかりました。

今日も、大阪環状線の「鶴橋」下車を忘れて、2つの駅を乗り越してしまいました。 バッカダナー。

でも体調と血圧は、良好です。 この4年間の疲れが少しづつ取れています。 もうすぐパワー全開できるまで、体調を戻したいですね。

6月初旬の事でした。血圧が高くなってつらかったので、医者からもらった薬を 一回だけ服用しました。 『あたま痛い』、『気分悪い』、『食欲無い』、最悪でした。 血圧の薬だけは、素人判断は危険と知りました。

今日の、ワンポイントの『絵』は、日曜日に買った「グラッパ」のラベルの絵です。 このグラッパは、うまいです。4700円(ディスカウント店の価格)です。

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Diary Page Since Aplil/18/1999 By AKIO KAMBE