FRIGHT Corner へようこそ
このFRIGHT Corner は、期間限定(1999年8月末まで)
のサイトでした。eddieKammbe でつづる物語です。
気の迷いなのか、白日夢なのか語る本人にも解りません。
このページは、 eddieとkammbeのモヤモヤの気持ちを整理したいのが発端です。
考えの概要は、下記を参照下さい。

No.
おはなし
19
ここにも同類(1999/8/20)
前編
後編
18
家族の怪(1999/8/20)
全編
---
17
事故(1999/8/20)
前編
後編
16
神に預けられた力(1999/8/14)
前編
後編
15
人面魚(1999/8/10)
前編
後編
14
手紙(1999/7/27)
その1
その2
13
わたしの神(1999/7/18,7/19)
前編
後編
12
tuyu(1999/7/3)
その1
その2
11
動かされる時(1999/7/3)
前編
後編
10
つたえぐさ(1999/6/20)
その1
その2
不思議な目(1999/6/16,6/21)
前編
後編
夏の夜(1999/6/14、6/15)
その1
その2
後ろを振り向くな(1999/6/9、6/10)
その1
その2
沈黙する人々・後編(1999/6/6)
その1
その2
沈黙する人々・前編(1999/5/30、6/6)
その1
その2
身内の死(1999/5/17)
前編
後編
ランニング(1999/5/16)
前編
後編
夜の廊下(1999/5/8)
前編
後編
光る物体の謎(1999/5/3)
前編
後編

eddie eddieのトキドキ日記へ戻る

FRIGHT Cornerに付いて
作成1999年10月9日


このFRIGHT Cornerは、人に言っても理解して頂けない心の奥に隠した事柄を総決算したいとの思いから始まりました。 ページ開始の発端は、eddieの掲示板からです。
尚、掲示板内容(下記)は、一部修正を加えています。

光る物体の謎 投稿者: kambe  投稿日:05月04日(火)09時45分57秒

eddieさんが2ヶ月程度前にUFO見たのを掲示板にかかれてましたね。
問題ありなので、詳細希望者は、メールでとの・・・・。
今日の日記には、「光る物体の謎」。いいね。いいね。
私スキなんです。こおいうの。
年賀状交換する友達(女性)の半数は、幽霊が見えるのです。
後編は、「おバカの話」のオチでも楽しそう。
地球人が居るのだから「宇宙人」(オットーまだこの言葉は無かった)も
いておかしくないですよね。後編たのしみ、楽しみ。


27歳の時の経験ですが、今でも 投稿者:eddie  投稿日:05月05日(水)01時39分00秒

強烈に覚えています。一体なんだったんだろうと思います。
Kaoruさん、eddieのトキドキ日記はトモさんのサイトにおいているのです。
トモさんの提案でそうしているんです。なにしろ、彼の所は50Mあるんですよ
私の所は5Mです。10倍違うから使ってという事になったんです。


kambeさん、いいですね。 投稿者:eddie  投稿日:05月06日(木)01時38分31秒

kambeさんとeddieのフライトコーナーって名目をつけて、真実味のある
恐い話し特集を8月一杯までやる企画ってのは如何ですか?
両方に同じページをつくり、前編をeddieのページ、後編を神戸さんのページ
って感じがいいな。OKならかきこしてくれ!


flight Corner 投稿者:kambe  投稿日:05月06日(木)23時41分08秒

面白そうですね。
フライトコーナー早とちりで作って
しまいました。
1ヶ月で2話ていどなら何とかなるかな不安ですが。


え、もうつくちゃったの? 投稿者:eddie  投稿日:05月07日(金)10時18分35秒

kambeさん、決定と同時に作製ですか!すごい!頭を垂れる。
それから、flightではなく、frightです。訂正をお願いします。
さっそく、このページにアクセスさせましょう。リンクします。


Flight→fright 投稿者:kambe  投稿日:05月07日(金)12時43分29秒

わかりました。
光なぞの物体なので飛ぶものとおもってました。「驚き」の方に修正します。
リンクパスは、少し待ってくださいね。
今会社なので自宅から今夜プロバイダのURLパスを変更します。
リンクパスがflightのままでは、混乱しますので。


リンクがおかしい 投稿者:eddie  投稿日:05月07日(金)21時06分04秒


kambeさん、前編に後編が、後編にFright Cornerの説明になってました。
乞う訂正を。でも徐々にやりましょう!楽しみながら!


CGIプログラム 投稿者:Kambe  投稿日:05月07日(金)23時30分07秒

eddieさんのご指摘の件は、CGIプログラムにより文章番号が変わるために
発生します。
現在は、強制的にページをコピーして私のページに貼り付けました。
ともさんへCGIの影響が出ないようご相談下さい。
ページの引越し完了しました。


読みました、夜の廊下 投稿者:eddie  投稿日:05月08日(土)16時48分46秒

Kambeさん、さぞ姪御さんはびっくりされたでしょうね。「死ぬ瞬間」という本を以前
読んだ折り、急に死んでいる自分の死体が見えるそうです。遺体の周りに家族がいる
声をかけるけど返事がない。今の自分は死体の真上、2Mぐらいにいる。すると、自分が
すごいスピードで空に飛び出した。そのスピードはどんどん速くなる。そのうち遠い所に
黒い点が見え、それがだんだん大きくなってくる。彼はあの黒い点に入り込めば自分は
死ぬなと感じたそうです。その間とても無念さが残りどうしょうもない後悔を感じた
そうです。その時つよい後悔が家族の声に反応させて復活したのです。彼は新聞関係に
従事された方だったと記憶してます。サンフランシスコのロス女史(医師)の死に立ち会われ
復活された方たちの回想録を綴った本です。私達は一回死んでみないとわかりませんが、
私なんか帰ってくる自信がございません。だから生きることを精一杯貫こうと思ってます。
いろんな意味でみなさんと生きるとか死ぬとか考えるのも意義があると思っています。


Kaoruさん、8月一杯まで 投稿者:eddie  投稿日:05月09日(日)02時00分47秒

ちょっと、恐い話しにのめり込もうと思ってます。20年前に経験した話しの
総決算をしたい気持ちもあるんです。FrightCornerをたまには覗いてみてくだ
さい。きっと、寒気がするかもしれません。ハハハ!


Fright Corner 恐怖のコーナー [1999年05月07日(金)]
先日の日記に「光る物体の謎は?」と20年前に経験したことを書きましたら、
いろんな反響がありました。
恐いから駄目、不思議な体験をされたんですね、好き好きこの手の話し大好き
と評価をしていただきました。

特にKambeさんと意気投合をしまして、 8月末までの限定バージョンで恐いお話特集を交互にアップしませんか呼びかけましたら、 OKと同時にもうページを更新されました。Kambeさんやることが速い。
「Friht Corner」と銘打ってオープンです。 eddieとKambeさんのeddikamコンビがどんな恐怖のコーナーを作り上げていくか楽しみにしていてください。

また、恐いお話を提供してくださる方を募集しております。よろしくお願い
致します。

光る物体の謎は?前編 [1999年05月03日(月)]

今から20年前の5月の第2日曜日の出来事だった。その日私は福岡の九州大学で司法試験を受験し、大分に帰る途中であった。現在では大分まで高速ができていますけど当時はできてませんでした。午後5時に福岡を出れば遅くとも11時には帰宅出来るだろうと計算しながら家路を急いでいた。

当時婚約者(現在の家内)と遠距離恋愛中で、11時半頃に名古屋から電話がはいる予定だったので脇目を振らず真っ直ぐ大分に向かっていたのである。

日田を抜けて水分峠の近くに来たとき、シトシト降っていた雨が激しくなってきた。私は試験が終わった開放感と彼女の声が久しぶりに聞ける嬉しさとが
重なって、フロントガラスを打ち付ける激しい雨も気にならなかった。

山口百恵ちゃんのテープから流れるメロディーに私は酔いしれながら湯布院から庄内の山中をぬける道路を運転していた。

順調に行けば後1時間で自宅に帰り着くと確認し、真っ暗な210号線をライトをアップにしながら走っていた。

急に道がアスファルトでなくなった。かなりでこぼこ道のせいか揺れが激しく
なったのでスピードを落としていくと、道の正面に土がかなりの高さで盛られていて道路を遮断していた。

ワイパーを一番速く動かさなければ前方が全く見えないほど雨が激しく降っていた。 え、工事中なのかと私は思い、車をUターンさせたとき百恵ちゃんのテープが止まっていた。オートリバースなのに変だなと 一瞬思った。

バックしながら思いっきり逆ハンして方向を変えオートマチックをRからDに
変えた瞬間、 何気なく前方を見ると木と木に挟まれるように人影のようなものが光っていた。そしてその光る人影はゆっくりと宙に ・・・・!
光る物体の謎は?後編 [1999年05月04日(火)]
私は一瞬目を疑った。身体は固まり目だけが上がっていく光る物体を追って
いた。 それは地上数メートル辺りでピタっと停止した。手の様なものが、手招きしているように見えた瞬間、 その手がス〜と伸びてきたんです。生まれて初めて髪が逆立つのを感じました。頭の中は真っ白になり 力一杯アクセルを踏んでました。

4〜5分道を戻ると、対向車がやって来ました。私は相当焦って いたのでしょう
。対向車レーンに車を停め助けを求めました。運転されていた方は年輩の方
で、「 バカヤロ!なにやってるんか」と怒られた事を覚えております。

そのおじさんは私の青ざめた顔か ら事故かと思ったそうです。
「変なもの、光る変な物を見たんです」と言うと、「どこで?」「この先です」 とこたえると、「ついて来なさい」と言うことになり、おじさんが先導し
てくれた。「今のところプレイバック、 プレイバック〜」とカセットは復活
していた。

雨が益々酷くなり、視界が相当悪くなっていた。 2〜3分すると、おじさんの車
が突然視界から消えた。私は恐怖のあまり、車を停止させ、クラクションを
思いっきりならした。すると、おじさんが脇道からバックで出てきた。
「にいちゃん、そっちは工事中で 行けんから、川まで一旦下りんと向こう側に
いけんよ」と言われた。

210号線は大分川の支流に 沿った山道だった。道路拡張のため迂回するように
なっていました。私はおじさんに真っ直ぐ進んだ事を 伝えると、それは無理だと言われました。砂利の山と工事道具等が置いてあるから関係者以外入れないと言って、 その柵の所まで連れて行ってくれた。確かに杭が打たれて柵ができていた。私の車の幅だと杭を一本抜かないと 通れない狭さだった。

「でも、向こうにうっすらと見える砂利山の近くでUターンしたんです」と
訴えました。しかしおじさんは寝とぼけてたんじゃないのかと言って笑って
ました。

なんとか、 帰宅し母にその事を説明すると、父が出張中でしたので家中の明か
を一晩中つけてました。家内も当時を 振り返って、あのとき元気のないうつろな返事をしていたねと言ってます。

納得がいかないので、 友人に昨日の話しをすると、昼間で3人もいれば、もし少々の事が起こっても大丈夫と考え出かけました。 現場は湯布院と庄内の境で
山の一部を削って道路の拡張工事の最中でした。現在この辺りには幽谷稲荷
が近くにあり墓を工事のため移動したとかいう話しがあります。

友人が道路工事の責任者の方に事情を 説明して、その光る物体の出た辺りを
調べましたが、何もわかりませんでした。工事現場には光る材料になる 物は
置いてないし、第一工事がないときは杭を打つので車は入れないそうです。

でも、私は確かに 見たんです光る物体を。それは宇宙人、幽霊、物の怪か
定かではありません。当時かなり疲れて運転してい たことも事実です。
しかし、杭を通り抜け、砂利の山の所まで行き、そこでUターンし、百恵ちゃんのテープ が途中で意味もなく停まり、光る物体をみて、その場を逃げると
百恵ちゃんのテープが復活していたという 経験を通して、今言える事は人智では計り知れない不思議なゾーンというものが存在しているかも知れない
と考えたりします。
夜の廊下・前編 [1999年05月08日(土)]

日曜の朝、寝不足な顔をした姪が起きて来た。家族全員が揃った朝食の時間です。私も久しぶりに家族全員で食事を する事がだきました。
姪は、不機嫌に『おばあちゃんに言ってよ!。夜中に廊下でウロウロするのは、止めてよ!!って』
食事中の兄は、『今のおばあちゃんには、通じないかも知れないけど。まあお願いは、してみます。』

私の田舎は、中国自動車道の滝野社インターのある町です。高速道路が通るまでは、月の無い夜になると殆ど鼻を摘ままれても 解らない程に漆黒の闇の中に沈んでしまいます。家の縁周りは、水田ばかりです。隣の家までは100m程度離れています。 中学、高校の頃は、夜になると近所の薮からキツネが出てきます。2階の勉強部屋に居る私にもキツネの泣く声がシーーンとした 闇を通して聞こえます。
キツネは、クワッ、クワッと鳴きます。コンコンではありません。

昔の田舎は、クーラーは不要でした。青々とした稲穂の水田を渡る風邪が、肌寒いくらいの涼気を運んできます。 夏は、蚊帳を釣って居間で就寝します。たまに蛍が蚊帳に留まり、薄明るい光を放つこともまれではありませんでした。
母屋は、兄が結婚準備する頃に改築されました。 改築された母屋の廊下は、東西方向に長い廊下です。台所を端にもち、6つの部屋の真ん中を通って、 ドアをあけるとそこは水田です。 台所を突き抜けると、農繁期の道具等を収納するため納屋があります。納屋は、母屋と同じ大きさです。 その納屋の2階が私の勉強部屋でした。

田舎の隣組みは、冠婚葬祭の全てを互助する組織です。結婚式やお葬式では、自分の所属する隣組の人たちが「炊事」や 「お墓での穴掘り」を共同作業で行います。私の田舎では、ほんの15年程前までは、土葬でした。隣村との境界線付近の村外れに お墓があります。葬儀の後には、土饅頭がキンキラ飾りのなかにポツンと立ちます。

「お墓での穴掘り」は、男衆の仕事です。墓穴は、直径1m、深さ1mは、掘り下げます。600年続いている村ですから、広いとは 言っても、掘り返すと人骨は、出て来ます。人骨は、丁重に穴の隅に起きます。穴の底に筵(むしろ)を敷き、塩で清めます。 堀った墓穴には、先の尖った草刈り鎌を棒に結わえてつるします。この鎌は、墓の底から魑魅魍魎が出てこないための おまじないだそうです。後は、戸板で蓋をして翌日の葬儀を待つことになります。

姪の話で中断していた会話は、また再開されました。 姪の話では、仏壇のある部屋からおばあちゃん(私の母)が出て来て、台所へ食事の支度をしに行くようです。 今日で三日目なのでついに彼女も頭に来て寝床から這い出しました。ボーットした頭で、『ケシカランこんな時間に!!。 彼女は、『おばちゃんヤメテよ!!。朝早くからゴソゴソするのは。』と言うつもりでした。ふと見た時計は、 まだ夜中の2時でした。

寝ぼけ眼で空ろな姪の目には、人影の無い廊下と回転する仏壇から漏れてくる常夜灯でした。 仏壇の部屋には、親戚一同や会社関係の花輪とご仏前のお供えです。

そして『兄さんの結婚敷式の時の若い写真が良いよ』と私が選んだ、”亡き母の遺影”が飾られいてます。
今日は、『おばあちゃんが亡くなってから7日目』と気づいた姪は、・・・』。
夜の廊下・後編 [1999年05月08日(土)]
仏壇の回転する常夜灯は消されました。常夜灯は、高さ50cmの足台(3本足)の上に丸い行灯が付けられています。 内部には、白熱電球が有り薄青色の行灯を内部から照らします。また、白熱電球の上昇気流を利用して、内部の風車の様な 回転機構が回ります。、回転する筒には、絵柄が印刷して有るのでその絵が影絵の様に回り、真っ暗な部屋の障子や襖に影絵となって投影 され、部屋全体に影絵が動きます。明るさは少ないですが、あたかも人が居て騒いでいる賑やかな 絵です。絵の賑やかさと、午前2時の物音一つしないアンバランスさは、姪でなくても何とかして欲しくなります。
回転する行灯は、Mac新型G3用17インチディスプレイの頭を円筒にしたと思えば!。似てます。

田舎では、お葬式後に49日間のお勤めがあります。午後7時頃に三々五々、親戚や近所の人が集まり「御詠歌」を 鐘の拍子にあわせて謡ます。
実家は、真言宗なので「お大使様(弘法大使)」の「四十八ヶ寺」に因んだ詠を謡ます。素人が謡う詠は、 下手糞な「能楽の謡」みたいに聞こえます。この詠も結構我慢ができるもので、正座している足のシビレの方が我慢出来ません。 49日間の「御詠歌」と般若心経です。結構、空で覚えてしまいます。
年長者には、合理的な人がいて、ダラーーーとした「御詠歌」をテンポよく謡って1時間半程度かかるのを1時間に短縮できる のです。お年寄りは、『あの人が先導すると時間が掛かる。Bさんは、テンポは良いし、声にも張りが有るので好きだ。』等 と話しています。お年寄りの世界には色々とノウハウが有り、始めて経験する私には、合理的な年寄りの考えに肯きました。

姪は、早めに床に就き、結構朝まで熟睡して”おばあちゃんの気配”はあまり気にしなくなりました。 姪は、おばあちゃんの”あわただしい歩く”気配が嫌いで、もう少し”静かに歩いて欲しかった”だけのようです。 『静かに歩いて貰えば、文句は言いません。セッカチな気配で目がさめるから嫌ナンダ!!』。 おばあちゃん(母)は、身体活発で町内旅行の時でも、先頭を歩いている人でした。のんびりした所が少なく、極めてショート カットの反応をします。”父”が大人しい人なので、バランスは取れた夫婦だったのかも知れません。

亡くなった人は、『自分が死んだとは気づかない』らしいのです。そのため家族、親戚、近所の人が49日間のお勤めをしてあげる のかもしれません。「御詠歌」を謡っている仏間には、多分”母”も加わっていたと思います。”母”は、誰の お勤めか解らないでしょうが、遺影が自分だと解れば、それなりのショックは有ったでしょうネ。 それが毎日繰り替えされれは、誰が亡くなったか解ります。神様は、自由意志を尊重されるので、亡くなった魂の 納得するまで待って下さるようです。(これは、あくまで私の推測ですが。)

一般のうわさでは、健康な若い人が事故死した場合は、自分が亡くなった事がなかなか理解出来ないように聞いています。 家では、家族、親戚がお勤めをしていても『普段の生活(めったに家に帰らない)』では、自分の遺影には、巡り合い ませんヨネ。若者は普段から、田舎の両親の元へたまには帰りましょうね。こおゆう事も有りますから。

義姉が姪に家族が集まる朝食の時に話していました。『ドオ?。昨日当たりからおばあちゃんの気配は無いんとちゃう!。』
『そお言えば昨日は、寝るのが遅かったけど。おばあちゃんの気配は、ナカッタナーー!!。なんで解るの?。』

義姉の話です。
『実は、昨日の朝おばあちゃんが黒い着物で正装して座ってはった。枕元に正座して。』
『おばあちゃん?朝早くからどこへ行くのですか。親戚の結婚式?。』と聞いてもニコニコしてるだけ。
バリッと正装した姿は、父の「朱綬褒賞勲7等」を皇居で頂いた時以来の姿だった様です。
寝ぼけ眼の義姉に母は、 『おじいちゃんや家族の事をお願いします。』ト。深々と頭を下げました。
『いや。おばあちゃん。他人行儀な事を!!。』と言おうして起き上がると。
おばあちゃんはスーーーと薄れて居なくなりました。
時間は、明け方のまだ日が昇る少し前でした。
でも先程まで座っていた実感と”家族をよろしく”とのおばあちゃんの気持ちは、残っていました。

その日は、母が亡くなって2週間目の朝でした。姪は、その日から『セッカチに歩くおばあちゃんの気配』は 無くなったとのこと。
私の気持ちとしては、旅立ってくれた安心感の他に、『”亡くなっても、セッカチな性格”変わらんなーー!。』 と少しガッカリです。

7月16日が母の命日です。あれからすでに12年経っています。
たぶん母は、少しは落ち着いたとおもいます。でもバツイチになった息子(私)が気がかりで『誰か良い人居ませんか?。』 とセッカチに尋ねまわって居るような気がします。
私は、いつまでも親不孝です。「反省」!!。
ランニング・前編 [1999年05月16日(日)]

不思議な体験は、人の寝静まった時刻や人の通らない場所とは限らないようです。息をハアハアさせながら走って居ても、不思議に出会う事 もあります。不思議を体験するときは、感が鋭くなっているのか、予感めいた事が感じられる時でもあります。

奈良市は、歴史を感じさせる町並みと不可思議な場所の名前があります。私が好きな場所の名前は、「不審が辻」とう場所名です。 場所がどこなのかまだ探しています。 大体の場所検討としては、猿沢池(興福寺の下)から程遠くない場所と聞いています。猿沢池から奈良町方向に100m南へ下がっ た和菓子屋を左に折れて東に向かうと”御所の馬場”に行き当たります。御所の馬場は、奈良町の家並みの中にサラサラ流れる 用水路を真ん中に上りと下りの幅4mの石畳が長さ100mに渡って存在する不思議な空間です。時間と空間が切り取られ、 現在に残った場所の様に感じます。めったに車には、出会いません。肝心の不審が辻は、この御所の馬場と猿沢池の大体中間 当たりだと思っています。

「不審が辻」は、昔むかし、奈良に鬼が出た時の名残です。人々は、ハアハア息をしながら黄昏時に必死に 鬼を追いかけていました。鬼は、辻の奥へと逃げ込みました。これで鬼を捕らえられると人々が辻になだれ込んだ場所は、 行き止まりでしたが鬼の姿はありませんでした。これ以後この鬼の消えた場所は、誰言うと無く「不審が辻」と呼ばれる ようなったそうです。

ランニング・ハイとよばれる身体反応は、ランニングをして20分を経過する頃からは、息苦しさが無くなることと聞いて います。『健康のためには、継続する20分以上の運動が必要です。』とお医者様は、健康診断でおっしゃいます。 確かに運動して、20分頃から苦しさが和らいで来ます。でも今からお話するのは、この感覚では有りません。

私は、現住所から500m東に位置する場所に住んでいました。時期的には、母の無くなる前後の時期です。 ベルさんが東京都熊谷市から奈良市内に引っ越してきたのもこの頃でした。

今から私が体験したランニング中の出来事にご案内致します。 少し退屈でしょうがランニングコースを紹介いたします。

その頃のランニングは、朝5時30分頃から始まります。夏でもまだ日は、昇っていません。 家を出てすぐに用水池にそって200m走ります。この池は、楕円形で長さ200m幅50mの結構大きな池です。 今でもたまにタヌキの親子に出会います。池を過ぎると上り坂になり頂上付近に「ベルさんの家」があります。 一番近くの駅前までは、そこからまだ1km走ります。駅前を過ぎて近鉄の線路に平行する住宅街を通る頃は、走り始めて から約20分経過しています。初夏だと日が昇る頃あいです。いつも感じるのは、太陽が昇る直前は空気の状態が何となく違 う様です。この時のランニングでの快感は、一日の一番新鮮な空気を最初に吸い込む快感です。新緑の香りと、少し湿気を含 んだような空気はこの時間に走る最高の喜びです。

この頃には、体全体は汗でびっしょりです。顔にも汗が吹き出してきます。5時30分から走るのは、ランニング後には、 汗を止めるための水風呂と朝食の時間を残しておくためです。汗びっしょりでは、朝のさわやかさは、損なわれます。

ランニング最後の四分の一は、お地蔵様の前を通り右に100m森、左に自動車学校を見ながら家路に付きます。 ランニング時間は、約25分間です。

不思議に出会ったのは、まだ日の昇らないいつものランニング中でした。 森の手前のお地蔵様を通過した時、一瞬で体全体に鳥肌が立ちました。 流れていた顔の汗は、止まり、体温は今まで20分走って来たとお思えないほど寒気を感じました。 いつもなら水風呂でも30秒から1分しないと汗は、引いてくれません。 鳥肌の立た瞬間は、「エっ!!」と思うほどの急変でした。 着ている服は、ベッタリした肌触りではなく、サラッとした感じにかわっていました。

足を止めないまま残り5分間走りましたが汗は、出ませんでした。 鳥肌の立った原因は、推測ですが「見えないもの」にぶつかったと思います。それが何かは、解りません。

不思議を経験した週には、3ヶ月の定期券を買いました。3ヶ月後の日付を見ながら『この定期は、最後まで使用 しない!!』の閃きが有りました。 西大寺から引っ越したのは、2ヶ月後の7月末でした。今から9年前です。

ランニング・後編 [1999年05月16日(日)]


やっぱり夜ランニングするのは、恐い。

恐い話には、「究極の選択」をするように、逃げようのない状況を聞く人に与えます。 でもランニングしていると、恐い状況も色々バリエーションや解決がありました。 恐い話は、聞き伝の話なので、逃げ道が忘れ去られているため、余計に恐いと思うのでしょう。

究極の選択の恐い話は、案外恐い事の組み合わせが巧みです。 『ある人が山道を歩いていました。後ろからは、その人の歩調に合わせた足取りで、ヒタヒタと 足音がついて来ました。貴方は、走って逃げますか。それとも足音の主を立ち止まって確認しますか。』 こんなのを子供の時に聞かされると極めてゾーーー。

京都の貴船神社は、丑の刻参りで有名な神社です。 よく丑の刻に幽霊に会った話は、この丑の刻参りの人に出会ったのを幽霊に思ったのかも知れません。 丑の刻参りは、午前2時に行なうものです。女性の夜道は、極めて危険です。人に襲われない為の女性の智恵が丑の刻 参りの装束になった様に思います。 丑の刻参りの装束は、結った髪を解いて肩に流し、足音をさせないために裸足。月明かりでほのかに見える 白い着物。頭には、五徳をさかさまにして乗せれば角に見えます。すれ違った人は、きっと幽霊に思うでしょうね。 能楽に「金輪(かなわ)」という、貴船神社を背景にした丑の刻参りの話が有ったように記憶しています。

友人から『留守の間の家を預かって下さい。』の話があり、私は引越しました。引っ越した先でも、ランニングは たまに行なっていました。住んでいた場所は、奈良市と京都市の県境に近い場所です。引っ越した先は、100戸程度の 住宅ですが、その回りは、ドリームランドや市営球場、陸上競技場で夜には殆ど人に出会わない場所です。

ランニングは、夜と土曜、日曜の昼間に行なっていました。走る場所は、道路の横に整備された歩道があり、結構 気持ちよく走れるものです。

たまに道路で跳ねられた小犬や猫が歩道に死んで横たわっていました。普通は、住宅街の中では、心有る人が奈良市清掃局に 連絡して、片づけて貰っています。でも市営球場、陸上競技場の付近では、2〜3日たってもそのまま残っています。 屍をさらす動物は、可哀相なので手を汚さないように足を持って付近の林に投げ入れてやる事もありました。 投げ入れる時は、腐った肉と、皮膚が離れるズルとした感覚が伝わって来ます。あまり良いもののでは、ありません。

動物の屍を処理しても、その場所で背筋の寒くなったり、鳥肌の立つことは一度も経験が有りません。かわいそうな犬は、 『天国へ行ったかなと』思いながらその場所を走ってゆきます。

ランニングコースには、1kmの間に家が三軒しかない場所が2ヶ所あります。一個所は、黒髪神社の場所と奈良坂の場所 です。夜中に黒髪神社の前を走るのは、苦手です。

神社の前を通るときは、神社から鬼が出てきて私の肩に乗ることを想像します。思っただけで鳥肌が立ちます。 運動不足の時は、ここを夜の10時頃に走りぬけます。外灯はありますが、決して気持ちの良いものではありません。 黒髪神社を過ぎると100mの竹薮があって住宅街にでます。ここまでがランニングコースの半分です。 背筋のゾクーとする神社の雰囲気は、20mも離れると気にもならなくなります。『ヤッパリ気の迷いだ。』と納得します。

住宅街を抜け、奈良坂町から京都市との境に向けて勾配のきつい坂になっています。道路は、京都への幹線道路で す。この道路の左は、森で右側は閑静な木立の多い青山住宅です。たまに車が通りますが、人は 昼間でも見かけません。この森に差し掛かる場所は、以前小犬の死骸を森に投げ入れた場所でもあります。

いまは、夜の10時です。犬の死骸を片づけた場所に差し掛かると、やたらと背筋がゾクゾクします。ゾクゾク感は、 突然その日から始まりました。 ゾクゾクする範囲は、犬の死骸を片づけた場所から始まって200m先のゴルフ練習場横の十字路で 左に曲がるまで続きました。左に折れた側の道路も歩道のある整備された道路です。 その十字路から次の家が見えるまでは1kmの上りです。回りは、森で人通りは、一切ありませんがゾクゾク感は、消えて います。

その頃は、アルコールの飲みすぎで、体重が増えていたので毎日夜に走っていました。 ゾクゾク感は、毎日続いたのです。5日間続いたので、昼間走って見ました。

黒髪神社は、何も感じずに過ぎました。例の場所は、昼間でも少しゾクゾクします。 問題の200mの中間にきました。

散乱したガラスの破片と車のスリップ後がありました。 先日まで無かった花と、ビールとジュースの供え物の横には、ミッキーマウスの人形が飾られていました。

それでも毎日夜の9時頃に私は、走っていました。このコースにした場合、ちょうど35分で回れるのです。 このコースが気に入っていたのです。でも毎日ゾクゾク感が有ります。

一週間後の日曜には、開けられたビールやジュースに花は、腐っていましたので片づけさせて頂きました。 でも毎月の15日には、花とお供えものが置かれています。2か月経った頃には、『ヤメテヨ!!お供えするのは。 何時までも、亡くなった人がここに止まるじゃないか』と思っていました。

ある8月上旬の日曜日にいつものコースを走っていると、青山住宅内での葬儀の案内板が立っていました。 誰か青山住宅で亡くなられた様です。

次の月曜の夜にも相変わらずランニングしていました。また例の場所です。????。今日は、感じない。 事故のあった場所の20m手前からゾクゾクを感じ、20mを過ぎると感じなくなっていました。 20mの範囲は、黒髪神社の場合と同じです。という事は、気の迷いでゾクゾク鳥肌がたったのです。

私の推測ですが、青山住宅での葬儀のときに、事故をした人も浮かばれたと推測します。 それ以来そこるを通過しても200mに渡ってゾクゾクする感じは、無くなりました。

私が、「離婚を決意」したのは、その8月末でした。各方面への相談や「相手のご家庭との話し合いも」済ませました。 協議離婚の書類を提出し、全てが完了した12月2日でした。カトリック宗教裁判所への申請書類も12月中頃には、作成し 神父さまへ提出しました。

この恐いランニングコースは、2ヶ月掛けて空缶拾いをしたコースです。毎週日曜日の空缶拾いでは、 45リットルのナイロン袋2つ分の空缶が集まりました。約6kのコースですが、毎回500m〜1km分を拾うだけで 2時間もかかりました。 事故後の空缶と花束を整理したのは、この作業のついでです。だから特にという気持ちは有りません。 私は、日本人的な宗教感からお世話になる道路は、奇麗にしたいと思って空缶を拾っていました。

私がランニングコースで事故に合わなかったのは、空缶拾いのおかげかと思っています。

身内の死・前編 [1999年05月17日(月)]

祖母のこと
身内が亡くなる程悲しいものはありません。祖母が亡くなったとき、私は大学一 年でした。祖母は59歳で亡くなるまで、リューマチで苦しんでいました。

私は祖母が大好きでした。いつも一人で遊んでいた私は誰かの注意を引きたいが ために悪戯をよくしました。炭坑住宅では長屋形式の住まいが多く、各家の前に は防火用に水を貯めてました。私はそれを一軒ずつ水の栓を緩め水を抜いてしま いました。大人達が慌てる顔を見るのが大好きで何度もやってる内に見つかって しまいました。祖母は「馬鹿じゃ、できないよ」と言って庇ってくれました。

私が高校の時、祖母は父との折り合いが悪くなり、名古屋の伯父夫婦の所に移り ました。何度か手紙をだしましたが、段々受験に入ると手紙の回数も減って行きました。

大学に入学してまもなく祖母は亡くなりました。葬式も一通り終え、一族だけ集 まって祖母の想いでを語っていたとき、私は飲めないお酒が無性に飲みたくなり ました。それから私は酔っぱらって伯父夫婦の前で何か言っていたそうです。

翌日の朝食の時、私の顔をまともに見ないので変だなと考えました。私は伯父夫 婦に祖母の声が聞こえると言って、それを告げたらしい。そのときの顔はまるで 祖母の顔のようになっていたそうだ。

私を寝かせ付けて伯父夫婦が二階に上がろうとすると、階段の途中で祖母が凄い 形相で座っていてそうだ。夜明け近く頃、小便に起きた私は何気なく階段の方に 振り向くと、祖母が優しく微笑んでいたので、目を擦ってもう一度見ると祖母は 消えていた。


従兄弟のこと
従兄弟が急死したと報せを受け、名古屋へ飛んだ。連日の仕事で頭が痛いから横 になると言ってそのまま帰らぬ人となった。小学生を頭に3人の子供を残してさ ぞ無念だろうと思った。
その夜、遺体の側に叔母と嫁と子供達とで遺体を安置してある部屋で寝ました。 末っ子の娘が夜中一人で遺体の前で歌を歌ったり、お遊戯したりしているのを叔 母が見ていたらぼんやり霞んだ従兄弟の姿が現れて、末っ子に何か一緒懸命話し ていたそうだ。
翌日、私は変な夢を見てねと話していると、末娘がパパがお利口にしないと来れ ないっていったよと言ったので、一同言葉が出てこなかった。

身内の死・後編 [1999年05月17日(月)]

叔母のこと
母は若く結婚して兄を産んだ。兄と母の一番下の妹、つまり甥と伯母が同学年で 同じクラスだったのです。その伯母のすぐ姉が亡くなった。死因は痰がつまり、 呼吸困難で窒息死だった。余りにもあっけない死だった。

亡くなった伯母は、否私にとっては姉のような存在で、いつも私の事を気遣い心 配してくれた。四日市喘息を少し患い、冷えると咳き込みがはげしかった。

そして、娘が修学旅行から帰ってくるので隣りの奥さんと迎えに行きましょうと 言いながら、咳き込んだそうです。余りにも顔色が変わったのでその奥さんは水 を持ってきたそうですが、そのときはもう呼吸をしていなかったそうです。

そして、翌年の夏にその出来事は起こったのです。当時私は市内で塾の展開を拡 大しようと教室を増やしていた。ある時、本部に副塾長から「女性の方が訪ねて 来て、eddieはいますか」と尋ねられましたと連絡がありました。私の事を名前 で呼ぶのは母か伯母さん達しかいないと考えると、どうも見当がつきませんでし た。
直ぐに、別の教室のオーナーから「先生、お客様が来られてますが変わります ね」と電話が入った。しかし、受話器の向こうからは何もきこえてこなかった。 「あれ、お帰りになったみたいですね」とオーナーが言われるので、どんな方で すかと尋ねると、中年の女性で名古屋弁だったような気がしますと言われた。

私はそれを聞いて背筋に悪寒のようなものを感じはしたが、決して恐いと思った わけではない。「いつか、お前の教室を見て見たい」と伯母が言っていたのを想 い出したからだ。死んでも私の事を思ってくれたのかと熱い嗚咽が湧いてきたの です。

それ以来、姉さんの事を想ってもいつも笑い顔しか思い出せない。

沈黙する人々・前編(その1) [1999年05月30日(日)]


姪が話しはじめた時に家族は、日常会話の一つとして聞いていた。私も『おばあちゃんが夜中に廊下を歩く』話は、 ああ『母なら有り得る』気分で聞いていました。兄や私以外の家族も、朝の会話としては驚きもしないで聞いていました。 彼女からは、この1年間で色々な不思議を聞くことができた。兄も『学校の生徒でこんな子の相談を受けた事がある。』 と言うことも有りました。

姪が不思議な経験を話すようになったのは、1年間の彼女の葛藤を乗り越えての事でした。 私は、母が亡くなる前の1年間は月に2回は”母を見舞いに”帰るようになっていました。 私は、それまでの4年間は、東京勤務の都合と、母の『結婚しろ』の圧力 に閉口して実家に帰ることは有りませんでした。
実家に返ったのは、4年ぶりです。 ですから姪と話をしたのは、4年ぶりのことです。
4年前には、家庭の中で「霊が見える」会話は、皆無でした。

私が実家に帰る時に持参して読んでいた本は、「不思議な体験の話」や「カルラ舞う(マンガ)」等でした。
そのころは、私も精神的に不安定な状態でしたから、「見えない物」に活路を見出すために 読んでいたのかも知れません。
ですから私の口からは、案外するりと「霊って居るらしいネ。!」と話していました。
家族は、「ふーーーん??」と頭に疑問符を点灯させて私の話を聞いている風でした。
でも姪は、私の顔を「ギッ!!」と睨み付けるだけでした。

子ども(3歳まで)は、妖精やお伽噺が友達です。草木や動物とは、「なんご」で会話しています。 童話やお人形や近所のワンワンが子どものお友達です。
こどもの会話は、大人の現実の世界からは、こともの成長に必要な「ゴッコ遊び(まねぶ)」 の一環として捕らえられています。
大人は「子どもは、空想して妖精や、空想の白い着物を着たおばあちゃん」と話していると受け取って います。
でも子どもに(特に3歳まで)は、妖精も亡くなった人も概ね100%見えていると 考える人もいます。

子どもは、3歳で自己を確立しようと模索します。彼らにとっては、心の不安定な時期です。
一般には、反抗期と呼ばれます。「自分が成長したい気持ち」と「お母さんに甘えたい(安心したい)」 の中で葛藤して成長します。
心の成長では、大人の世界への第一歩が始まります。
「大人の世界への成長」では、母親にも理解出来ます。それは、母親にも見える世界、経験した世界です。
言葉でも通じる世界、お互いに同じ物が見える世界だからです、よって子どもは、母親との心の繋がりが得られます。

やっかいなのは、「子どもにだけ見える世界」です。
言葉では、3歳の子どもは「不思議なもの」を表現できます。
でも表現しようとしても「母親に見えない世界」は、母親は理解してくれません。
いくら説明しても、本気にはしてくれません。
『また!!。この子は、嘘ついて』といわれます。

子どもは、生きてゆく為には、『見えない世界』を話題にしなくなります。
話題にしないことは、見なくなります。話題にもしなくなります。
でも、思春期を過ぎてもこの能力が残っている人が居ます。
3歳で母親にも、「言えない事」として自分に封印します。
7歳で小学校に上がっても「友達を無くす」原因となりますので話しません。
中学生になれば、誰にも話さなくなります。
これが結構「孤独」なのです。一番肝心な家族が信じてくれない状態は・・です。

学校の新学期には、転校生がきます。姪の学校にも転校生が来ました。
姪は、新学期に来た生徒は「同類」と”ピン”と感が働いたそうです。
姪は、人気の無い時に「あなたは、・・・でしょう」と質問すると、当たっていました。
姪は、その転校生に『不思議が見える話は、するな』と忠告したそうです。
転校生は、数ヵ月後には姪以外にも友達もできました。
転校生は、姪以外の友達に、『私は、霊が見える』と話したそうです。
その結果転校生は、友達が減ったそうです。
姪は、腹立たしく、『友達を無くすと言っておいたのに!!。彼女はバカですよ』と話してくれました。

私は、実家にかえると姪には、『この本面白いよ』と「不思議な話」の本を手渡します。
姪には、4年ぶりの“おじさん“が「不思議な話」をすることは戸惑いがあったと思います。
でも毎回、私が帰るたびに、話をしました。

私は、おばあちゃん(母)から聞いた話もしました。
おばあちゃんは、若い時に人魂を見たって話してくれたよ。
おばあちゃんの里は、この家よりももっと寂しい所で育ったんだよ。
育った場所は、山にはお猿さんも出るような場所でした。
曾おじいちゃん(私の祖父)は、炭焼きの仕事もしていました。
秋には、家の隣接(1m隣)の坂を2mも登ると松茸が嫌になる程 とれた場所です。
(実際、私が幼稚園の時、祖父の家でスキヤキをご馳走になったとき、 松茸の中から牛肉を探すのが大変でした。
私は、今でも 『松茸は食いたくない』と言っています。)
夜とっぷりと暮れた道を母は、歩いていました。
山の稜線が月明かりにボーット浮かび上がっていました。
その稜線に沿って人魂が飛んでいたそうです。
それを数回見たとのこと。母は、『総毛立った』本当に髪の毛が 直立するんですと。

姪は、自宅療養中のおばあちゃんに確認したかどうかは、解りません。
こんな話をしていると、兄も不思議な話をする様になりました。

兄は、そのころ『加古川商業高校』に勤務していました。
『私も生徒からこんな相談を受けたことがありました。』と話しはじめた。
兄は、人の話を”必ず最後まで聞いてくれる”先生です。
結構生徒からの相談も聞ける先生です。だから「不思議な話」を相談する生徒もいました。

この話の相談者は、男子か女子かは私(kambe)の記憶にはありません。
兄は話しやすいように、「男性から見た話」にしていました。
生徒からの悩み事相談は、失恋したことを、聞いて欲しいとの打ち明けでした。
恋愛の相手の女生徒は、すれ違う人には、挨拶をする朗らかな娘さんです。
彼は、彼女を好きになりました。彼女とデートする時は、楽しい時間です。
彼女の住んでいる近所を二人で散歩している時は、よく彼女が「挨拶をするのが」 彼には、スゴク好感のもてる所でした。
これは、デートをしていたある日のことでした。
歩いていたのは、人のまばらな通りです。
昼間でしたが殆ど人を見掛けません。
でも彼女は、20mおきぐらいに誰かに挨拶(頭を下げる)をしているのです。
最初は、猫とか犬に挨拶をしているのかとおもいました。
でも、それらしい物陰は、無かったそうです。
不思議に思った彼は、『誰に挨拶しているの?』と質問しました。
彼女は、『近所の方です。』との返事でした。
その通りでは、彼女の挨拶した所には、人影は有りませんでした。
その後、彼は気持ち悪くなって別れたとの話でした。
兄は、当事者から聞いた話なので・・・と。

母の亡くなる前には、家族からは平気で「不思議な話」が出てくるようになりました。
そのころから姪は、日常的に「霊を見る」ことを話す様になりました。
私を「ギッ!!」睨みつけることも無くなっていました。
姪が、家族に安心感を持った結果「夜の廊下」を話してくれたのです。
彼女が長年の「心の奥に隠していた秘密」の「不思議に出会う事」 についてです。

恐い話は、創作でも、実話でも聞く側は、一時の楽しみでしかありません。
でも「不思議を体験する人」には、人生そのものなのです。
このFright Cornerでは、ただこの文章をお読み頂くことがedikamコンピにとっては 喜びです。初めて自分の心に閉じ込めた事を話す「勇気」を見守って頂たいだけです。
姪の様に、思春期に「不思議を経験し」、早めに心を開くことが出来た人は幸せです。
ても3歳頃から「心の奥」に閉じ込めていた傷痕は、結構後まで影響するとは思います。

eddieさんの様に「27歳での体験(光る物体の謎)」は、結構本人にもショックが大きいのです。
このFright Cornerを読んだ読者は、すぐには話し相手になって頂くには荷が重いとおもいます。
私も読者に友達になっていただくほど、心が強くありません。
ただ見守って頂いて、このコーナーが終結するまで普通に付き合って頂くだけで理解を頂いているものとして感謝 致します。

私(kambe)自身は、結構緊張しています。
最初の「夜の廊下」を発表した時、「eddieの掲示板」の反響が嫌いでした。
その時から、「eddieの掲示板」や「おじマク伝言板」には、書き込みをしていません。
各サイトの管理者からの「メール」にも返事を書かない状態が続いています。
他人からは、実生活とは関係ないでしょう。しかし当事者には、生活そのものなんです。
私の場合は、社会的にも「仕事を無くす」心配がないから(変人でも、仕事は信頼できる)の結果、 今回のお話ができるのです。

後半では、「沈黙する人々」が私に話して下さった内容です。
信じるか、信じないかは、ご自由です。
沈黙する人々・前編(その2) [1999年06月06日(日)]


夕食が済むとおじいさん(私の父)は、屋外の縁台へ夕涼みに出ます。
6月末のころには、稲が50cmを超えて成長してしています。
田を渡る風は、涼風となり日中の暑さを一時忘れさせてくれます。
いつもおじいさんは、夜の9時頃まで屋外に居ます。
たまに並んで座ると「神戸大空襲」の話をしてくれました。

家から南東方向を団扇で示しながら、
『終戦のすぐ前は、神戸は火の海だった。
家からは、直線で100km以上離れているが、こうして夕涼みを
していると、南東の空は、赤く染まっていた。どれだけ多くの人が
焼夷弾の犠牲ななったのか。
あの狭い神戸の街は、大阪方向と明石方向しか逃げる方向が無い。
海と山に挟まれた、逃げ場の無い街でかわいそうだった。』

いつもの日曜の朝食時間に姪は、少し学校に付いての不満をもらしていた。
学校の設備や授業には、不満は無いようです。
姪がこの話をしてくれた時、彼女は美術系の学校に通っていました。
ただ休みの時間でも彼女は、窓側に近寄って外の景色は、あまり
見ないそうです。

家から学校までの片道通学時間は、1時間半以上掛かります。
学校が神戸市内にあるからです。

学校については、通勤時間とか授業については、不満はないそうです。
でも学校には、少し気になる部分があるそうです。
姪は、『窓から外を見るのが苦手だ』と。
晴天の日は、まだましだけど、少し曇った日は特に嫌いです。
姪の話では、 各教室の窓には、必ず人の姿がガラスに映っているいるのだそうです。
最初は、誰かいるのかとおもっていましたが、ガラスそのものに人の
姿が張り付いて見えるようです。それも各教室には必ずそんなガラス窓 があるのです。
彼女不信に思ったのは、何時にみても同じ顔の人が同じ位置に写っている。
授業が始まっていても、その姿は彼女の方向をむいたままでした。
姪は、そのガラスに写っているのは亡くなった人の姿かと思う。と。

姪は、結構笑える霊も見たそうです。
体育のバスケット授業では、ボールを追いかける霊を目にしたとの事。
この霊の傑作な所は、腰から下しか無い(下半身だけ)のがボールを追いかけて いたと。
沈黙する人々・後編(その1) [1999年06月06日(日)]


私は、東京へ出張して時間があるとこの喫茶店に寄ります。
精神的に疲れ果てた時は、ここによく来たものです。
赤坂にある喫茶店です。何もないときは、年賀状の交換だけが挨拶です。
別に珍しい紅茶が有るとか、珍しい事が有るわけではありません。
ここに来ると、ホッとするのです。
東京勤務の時は、1ヶ月に一度は寄っていました。

この店を切り盛りするMさん(女性)は、私の結婚を予言しました。
どうしても結婚しない(出来ない?)私は、『今回の人とはうまくゆきますか?』
と彼女に質問したのは、7年前の12月でした。
『結婚は、出来ますよ。彼女へこれをプレゼント』と小さなクリスマスツリーを 頂きました。

Mさんは、占いを商売はしていません。
またこの喫茶店に来る人も彼女の「不思議な能力」については、知りません。
友達からの紹介や余程のことが無い限り彼女は占ったりはしません。

この時私がここを訪問したのは、『離婚を決断しました。』と報告するためでした。
7時の新幹線までには、1時間ゆっくりコーヒーを飲む時間もあります。
ここでボーーっとしていると何となく癒される気がします。

皆さんは、占いについてはどの様にお考えですか。
私は、占いは方向を決めるときの一手段だと思います。
しかし運命を自分で前向きに選択する場合には、賛成ですが 運命が決まっているとしてそれに引きづられることには賛成しません。
聖書の中でも占いをしない方が良いと言っています。
折角神様が貴方を成長させるために与えられた「試練の時」を事前に知って避けることは、 自分自身の生きている事の自己完結を阻害することだと考えます。
普通の人は、自分の苦労するときを事前に予言したならば、まず避けて行こうと考えます。 どうなるか解らない事については、みんな思いわずらいます。
事前に試練を知っても、避けなかった場合は、聖人になれますよ。
人間は、弱いですから、悪い予知は、避けて通りたいと思います。

占いは、簡単に出来るとお思いですか。
私は、20年前は趣味で占いをしていました。
「四柱推命」です。1人を占うのに素人の私では、2時間半は掛かります。
職場の人が結婚したので、占ってみました。将来生まれる子どもの性別 、生年月日です。1週間しかずれていなかったので相手は、関心していました。
でも問題は、1日に2人も占ったら一週間は、疲労が溜まっています。 肉体的ではなく精神的でもなく、人間としての奥の方が疲れてしまいます。 お商売で占いをされている方は、相手がかるい気持ちで受けるから体が 持っていると思います。
本当に自分の人生を左右する占いが必要な場合は、相手はあっさりとは 占ってくれないと私は思っています。

Mさんの「不思議な能力」は、どの程度なのかはハッキリとは解りません。
4年前Mさんのお父さんが亡くなったとき、のことは聞いていました。
亡くなった人は、肉体を離れた状態ではまだ『霊として目覚め』てはいません。
朝目が覚めてもすぐに起きられないのと同じです。
私の母が、亡くなってから霊として目覚めるには、2週間かかっています。
霊は目覚めた場合、自分が生きているのと同様(「夜の廊下」の様)に家の中 を歩き回ります。
Mさんの場合は、亡くなった父親の霊を一晩で”目覚めさせ”、”亡くなったことを 自覚”させてあの世へ−晩で旅立ちさせています。
Mさんのお母さんも凄い「不思議な能力」を持つ人なので二人の祈りの協力による結果 です。普通では、49日かかる事を一晩で完了してしまったのです。

Mさんは、『奈良坂の家に引っ越しても、家を買ってはダメ』と忠告してくれました。
貴方と『奈良坂の家』は、相性が悪いですと。
ましてや、庭の置き石は、河石が使われていて、良くないですよ。
普通庭石は、山から掘り出した石が一番良いそうです。
河石は、その川の歴史があるので『変な石では良くない』そうです。

たまに私は、少し危険な事をすることがあります。
庭の河石に何か付いているかを確認したかったのです。
今から5年前の初夏(今ごろ)でした。
これは一人で行った場合は、危険を伴うことが有るようです。
お供えをすることや、お祈りは短時間では問題ありませんが、 私のやったのはも夜中の12時から2時の間でしたから危険なのです。
嫁さんも出ていって返って来ませんので、暇つぶしも有りました。
お盆に塩を盛った皿を座る前方の左右におきます。お供えを真ん中におきます。
その状態で、1時間半祈っていました。お祈りは、般若心経でも「めでたし聖ちょう・・ ではじまるマリア様の祈り」でも良いです。
祈っていると頭は、ボーーっとしてきます。
よく言われるのは、この状態で「何か見えても構うな!!。祈り続けなさい」とです。
2時間した頃、私は手の平を庭に向けて、手の平を左右に動かしました。
庭の東端から西の端に向かってゆっくりと動かして手の平の温度変化を感じていました。
大きな河石の左右と1m少しずれた右側、そして庭の南西方向で少し手の平が涼しく感じ ました。10分間で繰り返していましたが同じ場所で手の温度が変わりました。
手から気の抜ける痺れを感じたので、体力温存の為にその日は中止しました。
これを1週間行いましたが、結果は同じでした。
庭には、4名の霊が居られる様です。
怖がらないで、ゆっくりお辞儀をして立ち去れば問題はないようです。
ちなみに、出ていった嫁さんが言っていました。
『昼寝から目覚めたら4名男性が居られましたが、姿がすぐに消えました』と。

Mさんは、4年前の夏に東京から伊勢神宮を廻って”庭を清め”に来られました。
『ここと、ここに、清めの塩を置いて、と。』
5分で帰られました。
私は、彼女に質問しました。
『庭の霊は、4名ですか?』
『その通り。あまり構わないほうが良いです。』
Mさんは、私とMさんの共通の友人の「Kさん」に会うため奈良に来たのです。
だから”清めたよ”と言ってすぐに帰って行かれました。

ここからは、Kさんの話です。
彼女(Kさん)も時々、「不思議な事」に出会うそうです。
彼女は、Mさんとは長い友達で出会った月にはもう金沢へ旅行に行ったという気の合いかたです。
Kさんとは、20年の付き合いになります。旦那とも友達ですが、旦那の方よりもKさんの方が 私には、気が合います。
お互いの家庭は、苦労する時が同期するので、良い話し相手にはなれます。
Kさんからは、「ハーレクイーンロマカンスを読んで少しは、女性を理解しなさい」と色々と お説教をされます。
なかなかの美人で『大手石油会社の公報部の編集長になるか結婚を取るか』で結婚を選択したそうです。
旦那に口説かれたのは、奈良へ観光に来て、昼飯屋(いまは無い)で4時間でとか。

彼女も主婦ですからパートタイマーに出ます。
奈良の旧家の墨屋さんでの話です。
お互い、ユングの本等を読んでいるので、ただ「霊が、オバケガ」と興味本位では話をしません。
ある程度の再現性が無いと話は、しません。

そこの墨屋の奥さんが病気で入院して亡くなったすぐ後の出来事でした。
奥さんの入院中にご主人は、浮気をしていてあまり奥さんを見舞いに行かなかったとか。
奥さんが亡くなって1ヶ月した頃かせエレベータの調子がよろしくないようでした。
Kさんの居る階でエレベータは、停止するのですが、扉が開いても誰も乗っていません。
不思議が起きる時は、エレベータが1階まで降りて行き、Kさんのいる階で止まるのです。

エレベータは、2回程制御回路の点検や部品交換しても不具合は直らなかったそうです。
ある日彼女は、廊下で白いモヤの様なものとすれ違ったとき、「ア。奥さん」と感じたとか。
その後彼女は、別のパートに変えたそうです。
沈黙する人々・後編(その2) [1999年06月06日(日)]


12年前住んでいた家の隣には、Yさんがいました。 彼女(Yさん)は、ディザイナーの学校に行っていた少し繊細な人です。
Yさんの旦那は、同じディザイン学校の同級生でした。
Yさんの「不思議な力」は、彼女のハンディキャップを補う物ために存在していると 思います。
彼女は、お父さんの仕事の関係で、外面的なものよりも内面的なものに敏感でした。
彼女の体には、心臓手術の傷痕があるそうです。Kさんは、彼女の胸の傷を見たことがあり、 「女性として可哀相です。」と話していました。
Yさんは、阪大循環器センターで心臓手術を受けていますが、Kさんは心因性の要素も考え られると話しています。
お父さんが警察の人でしたから、世間の鬼と対応するため、家族が犠牲になったのかも知れません。

『コンニチハ、居られますか。』
Yさん宅の玄関を開けると、「5匹の小猫」が迎えてくれます。 彼女は、殆ど外出をしないで自宅にいます。
心臓の調子が悪い為、殆ど外出しませんでした。 Yさんのお母さんは、『彼女は、猫を気晴らしに生きていてくれるだけでも良いのです。』と。

そんな隣へ私は、引っ越してきました。16年前の話です。
私が引越しした時は、ご両親と住んでおられました。彼女の体調が心配なので 一緒に住んでおられるとか。
その隣には、個人で宗教法人申請した霊能力の有る「Tさん」と「Tさんの妹さん(Hさん)」の2軒が連なっていました。 Tさんが「個人で宗教法人申請した霊能力の有る」のが解ったのは、ほんの7年前です。 私が、その場所を引っ越す直前でした。
今回の話は、Yさんの話です。

私が隣に引っ越したとき、友達が風呂用湯沸かし器の設置、家の掃除等を 手伝ってくれました。
そのうちYさんも体を心配しながら、私の家を見に来たりしていました。
まず私たちが提案したのは、彼女の病気が「不思議な力」によって治るのではと考えたのです。 Kさんの旦那は、腰痛でしたが「不思議な力」で直りましたとのこと。
新大阪で開かれていた「十字式健康普及会」の安久津先生に「気」で直してもらったとか。 私も、Kさんの旦那に伴われて、治療してもらいました。
「十字式健康普及会」は、北海道足寄のプロテスタントの教会を活動の拠点にしています。

心臓が悪い人に大阪まで行って頂くのは、極めて危険が伴います。
Yさんにすれば、大阪は5年ぶりの大旅行となりました。
Yさんは、数週間悩んだ末に、大阪へゆくことを決断しました。

彼女の心臓は、背骨のずれによる疾患ではありませんでした。 原因としては、心因性が考えられるとのことでした。
彼女が大阪へ行く決心をした後は、犬の散歩とか単車での走り回りも出来るように 元気になってきました。ご両親も彼女から離れて、Yさん夫婦のみが、生活される までになったのです。
彼女が自身の心のモヤモヤに少し強くなった結果だと思います。

私は、ある日Yさん家で炬燵に入って話していました。
『なにかこの辺りは、何かありますか。特に隣の池は?。 『実は、昨日お祈りしていたら蝋燭の炎が、普通10cm程度なのに 40cmにも伸びたままでした。いくら対流現象でも変なんだけど』と私。
Yさんは、『多分出て来られたと思います。隣の池は、数年前に病気を気にした 女性が入水して、亡くなられた場所です。でも気にしないで良いですよ』。

Yさんは、親戚の人が亡くなると「夢」を見るのです。
Yさんは、『昨日、親戚のおばさんが亡くなる夢を見ました。多分亡くなってると思う』 と彼女が言って彼女は、右側の天井付近を見上げながら『ア、オバチャンが挨拶に来られたよ!。 この家には、まだ私の両親が居ると思って、来られたんだと思う。』と。
でも私には、そのおばさんは、見えませんでした。

それから3年程経過した頃、Yさんは、『Tさんの妹(H)さんが亡くなったんです。』 最近Hさんの家は、娘さんが出られたので一人暮らしでした。
Yさんが、亡くなったH家の二階窓を見ていたら、若い着物を来たHさんが見えたそうです。
Hさんの娘さんに話したら『その着物は、母の入棺で着せていた着物です』と。

実は、私は引っ越したのもつかの間、すぐに東京へ転勤となりました。
4年間の東京転勤でした。
奈良の家は、家賃が安いのでそのまま4年間借用していました。 東京に行っている間もセカンドハウス的に利用していました。
殆どの家財道具は、そのまま奈良に残していました。
1000枚のレコードも200kgのオーディオセットもです。
東京へ持っていったのは、聖書と着替えと布団だけでした。
何も無い状態からのスタートです。

Yさんから聞いた話は、たまに奈良に返ってきた時に聞いた話です。

「沈黙する人々」の後編での結論は、『その時は、悪い結果でも逃げないで下さい。』 いつかは、良い事があると思って、希望を捨てない事です。
私の場合は、転勤を受け入れた結果、今の仕事があると考えています。
Yさんは、『一生猫相手の生活』と両親にも思われていました。
Yさんには、今一人の子ども(女の子)を設けました。自分で人生を切り開いたようです。
ちなみに、東京で4年間過ごして帰ったら、Yさんは、引っ越していました。
隣の池も埋め立てられて、公園に変わっていました。

後編(その1)での占いの続きです。
占いは、その時点での未来だと思います。自分が変われば未来は、変わります。
未来は、自分が変化することで必ず変わると思っいます。
Mさんに『結婚できます。』といわれた私は、今離婚しています。
確かに『結婚はしました。でも離婚までは見えなかった様です。』 私は、離婚してから温厚になったといわれます。私は、案外「結婚・離婚」で 人間的に心豊かに成れたと思います。
こんな風に話せる様になるには、4年が必要でした。
後ろを振り向くな・その1[1999年06月09日(水)]

昭和24年に兄は生まれた。その翌年、両親は兄を連れて鹿児島に帰省しました。 戦後5年しか経っておらず都会はいざ知らず、田舎ではまだまだ戦争状態から抜 け出れない状況がつづいていたそうです。

実家に到着したその晩から兄は熱を出し、火がついたように泣きだしたそうで す。当時21歳の母は心配の余り、医者を呼ぶよう父に頼みました。しかし、交通 の便の悪い所で汽車は日に2回位しか来ない所です。まして大口市からタクシー を呼んで病院に行くには時間もかかるし、電話が役場と駅にしかない状態ですか ら、電話するにも少なくとも一里(およそ4km)は歩かなくてはなりません。

祖父が村長さんに相談すると、川上に淵があり、その淵にお供えをすると川の主 が子供を救ってくださると、何とも信じられないような話をしたそうです。父は 兄の為に、迷信だとわかっていても一人で淵までいく決心をしたそうです。 米、酒、肴をもって川上に沿って数キロも遡り、やっとその淵にやってきたので す。祖父から忠告された言葉を思い出しながら、浅瀬を回り込み一番奥にお供え 物を置きました。その後すぐ父は子供の熱を下げてくれと柏手を打ったそうで す。振り向くな、何が起こっても一旦お供え物をしたら振り向くんじゃないぞ、 もし振り向けば、子供に、そしてお前にも災いが起こるぞと訴えた祖父の顔が脳 裏から消えなかったそうです。

12時は過ぎていた、水の流れる音と風が戦ぐ音と妖しい程、澄み切った空の影響 なのか、この世の物とも思えないほどの静けさが漂っていたそうです。父は立ち 上がり、ゆっくり後ろを向いて歩き始めると水が泡立つ音がし始めました。振り 向くな、何があっても振り向くなと祖父の忠告を呪いのように唱えていると、水 が湧き上がる音が急に激しくなり丸でポンプから吹き上げる感じがし、一目散に 逃げ帰ったそうです。

もちろん、兄はその後熱が下がり何事もなかったのです。このことがその淵での 出来事と何かの関係性があるかは定かではありません。
後ろを振り向くな・その2 [1999年06月10日(木)]

私は福岡県のM小学校を卒業しました。当時、マンモス学校でクラスに50人以上 は詰め込んでいたように覚えています。全校生徒数は3000人以上はいたと記憶し ております。その影響なのか、廊下も運動場も教室も休み時間は生徒でどこも一 杯でした。

そんなマンモス学校にも一カ所、生徒が近づきたくない場所がありました。そこ は旧校舎3棟を繋ぐ長くて真っ直ぐな廊下で、昼間でも薄暗く、曇天や雨天の時 は真っ暗って感じでした。戦争中、焼夷弾で焼け出された人達や負傷された人達 をこの廊下に避難させていたと聞いております。そこで多くの負傷者が亡くなっ たとも聞いております。

私は小6の時放送部に入っていました。その関係で結構遅くまで学校に残ってい ました。放送部室がこの長い廊下の反対側にあるので、どうしてもそこへ行くに はここを通らなければならなかったのです。当時、私は松葉杖で歩いていまし た。松葉杖の下にはゴム製のキャップの様なものをつけて滑り止めにします。し かし、よく擦り切れて底から松葉杖の一部がはみ出し、歩くとコトン、コトンと 音がするのです。その日もこの長い廊下を松葉杖を使って歩いていました。副部 長をしていた関係上原稿チェックなどで遅くなってしまったのです。普段は仲間 と帰るのですが、その日は一人だったのです。

コツン、コツンと響き誰もいない廊下だけに凄くこだましました。ちょうど廊下 の中程で杖が滑って倒れてしまいました。立ち上がろうとすると、数メートル先 の黒い陰が動いたような錯覚に陥りました。気を取り直して再度立ち上がろうと すると、その黒い陰がはっきりと動きました。しかも私の背後にピッタシ寄り添 ったのです。髪は総毛立ち、思わず悲鳴をあげようとした瞬間、耳元で聞こえた のです。「大丈夫?振り向かないで!」それはとても優しい女性の声でした。今は 記憶が薄れてますが、初めて病院に行って看護婦さんから注射されるときに聞い た「大丈夫よ、痛くないからね」というニュアンスに似ていた。

急に身体が軽くなり、立ち上がることができた私はゆっくりだが、出来るだけ速 く廊下を渡ました。それから卒業するまで、その廊下を一人で二度と渡ませんで した。
夏の夜・その1[1999年06月14日(月)]

私は長崎の麻生炭坑で生まれた。戦後の炭坑はそれはそれは稼ぎがよく、大学の 先生さえも出稼ぎにきてたくらいです。朝鮮戦争の時などは休みなどとれないく らいいそがしかったそうです。しかし、昭和30年代に入ると、石油が石炭に変わ り、炭坑も不景気になり始め、離職する人も増え始めていた。

炭坑の長屋は今風に言えば3LDKです。それが同じ棟に4軒が雑居している建物で した。住人はお金がなく、炭坑の購買所から掛けで買っておいて、給料日に支払 うというシステムでした。働けば食う事の心配はありませんでした。そう意味で は戦後の世相とは比べ物にならないほど守られていたそうです。それに、開かれ た家庭と言おうか、開放的な家庭が多かったような記憶があります。醤油がなけ れば、隣で調達が出来たし、とにかく、お金以外ならなんでも交換して生活でき る共同体でありました。

私の隣のFさん一家は娘さんとご夫婦の三人暮らしで、満州からの引揚者であり ました。とても仲の良いご一家で、がさつな我が家と違っていつも静かな雰囲気 を漂わせていました。突然奥様が亡くなられ、初めての夏の夜の事でした。

裏庭の縁側でFさんが夕暮れをながめていたそうです。母達は近所の奥さん達と 裏庭に面している通りで井戸端会議に花を咲かせていたのです。垣根は殆どが植 木を利用しておりましたので、ちょっと注意して見れば長屋の裏庭から室内は丸 見えでした。
母達は垣根越しに「今晩は、暑いですね、夕涼みですか」と声をかけると、「今 晩は、はい、家内が暑いというから、 蚊帳をだして涼んでいるんですよ、ね、 お前」とFさんは奥の蚊帳に向かって話しかけていた。母達は腰を抜かすくらい 驚いたそうです。そして蚊帳の方をじっと覗いてみましたが、何も見えなかった ので、寂しさの余り、Fさんがおかしくなったのではと思ったそうです。 母達はかわいそうにと思いながら帰ろうとすると、娘さんが勤めから帰ってくる なり、「お母さん、ただ今、暑いわね」と蚊帳の方に向けて声をかけたので、母 達は恐ろしくなり急いで帰ったそうです。その後、その家族は炭坑を辞められ消 息はわからりません。
夏の夜・その2[1999年06月15日(火)]

それは、凄い豪雨だった。或る川が溢れだし、両岸の住居を飲み込み多くの犠牲 者をだした。その中にお菓子メーカーを営んでいるNの家だけが流されずに、そ の佇まいを維持していた。Nさんは贅沢することに生き甲斐を燃やす男性だった ので、家の周りの壁を全て大理石で築き上げていたのです。そのお陰で水に浸か った家でただ一軒だけ難を免れたのです。

しかし、梅雨が終わる頃からNさんの奥さんに不思議な幻覚が見えだした。川沿 いに屋敷がありますので、カエルの鳴き声がうるさいほど聞こえます。しかし、 その年はその鳴き声に混じって赤ちゃんの泣き声が何度も聞こえてきたそうで す。耳を塞げば塞ぐほど鳴き声は大きくなったそうです。さらに風呂の準備をし ようとすると、桶の中に守り神の白蛇がとぐろをまいていたこともあったそうで す。亡くなった義母が悲しそうな表情で仏前に座っていたのも見えたりしたそう です。とにかく、夏の夜の不思議な出来事がつづいたのです。

Nさんの仕事に少し翳りが見えてきました。旧いお菓子作りを頑固としてやりつ づけ、新しいお菓子メーカーの進出に対抗できなかったせいです。卸業者も取引 を停止するようになり倒産の憂き目を会いました。それでも彼は贅沢を止めず、 ついにNさんの奥さんも離婚し、一家離散しました。

いまでも、その豪華な大理石の壁はその川の近くに佇んでいます。その没落の陰 に亡くなった人達の恨みがその大理石の壁に染み込んでいるように・・・・ Nさんの息子さんは今、営業で当社に勤務しております。

不思議な目・前編[1999年06月16日(水)]

S君が他人と違う不思議な能力に気づいたのは、大学での合宿の時からだった。 ハンドボールで国体出場に向けて阿蘇の麓の旅館に宿泊していたときの出来事で ある。

練習を済ませ、一風呂浴びて夕飯を済ませると睡魔が襲ってくる毎日で、その日 も同じようにで仲間と寝ていると、足を引っ張られたり、軽く叩かれたりする感 じがして目を覚ました。

隣で寝ている奴が悪戯して足を引っ張ったりしているのだろと思い横を見ると、 引っ張られている側には誰もいないのに気づき、驚いて飛び起きようとすると何 かに足首を握られているようで立ち上がれなかった。布団を思い切り跳ね上がる と、敷き布団の中で生の手がS君の足首を握っていたのです。余りの恐怖に悲鳴 をあげ気絶したそうです。

朝方、いつものように目が覚め、飛び起きて昨日の事を調べたそうです。しか し、布団の中には何もありませんでした。S君は夢だったのかと胸をなで下ろし ました。しかし、本当の恐怖はこれからだったのです。
不思議な目・後編[1999年06月21日(月)]

その後、S君は当社にアルバイトで働いていました。或時、彼と二人で車で移動 中に彼は「あ、」と短い溜息に似た声をもらしまた。側にいた私は「どうしたの か」と尋ねると、秘密を絶対守るという約束で話をしてくれた。(その後、この 約束は反故になった)

S君は合宿後、不思議な光景が見え始めたそうだ。車がすれ違う瞬間、車の上に 白い衣を着た人が立っているのが見え、その後その車は事故に遭い、死者が出て るそうだ。だから、S君は白い衣の男を【死への使者】と呼んでいた。

もう、何回も見たそうで、ある時は大学の知人の車の上に現れ、運転を止めるよ うに説得したが、その知人は気味悪がって話を聞いてくれなかったそうだ。そし て翌日、早朝に事故ってなくなったそうだ。因みにその事故現場は当時私が住ん でいたすぐ側の喫茶店の横の壁にぶつかり大破して、即死だったのです。

そして私と一緒の時も【死への使者】が見えたという事です。そんなS君は卒業 前に一通の手紙を置いて行方不明になってしまいました。その手紙には知人、友 人の死が見えることに耐えれなくなりました。全く自分を知らない所で生きて行 こうと思ってますと書いてあった。

知人、友人の中に私がリストアップされているのではと、大変心配した15年前の 出来事でした。
つたえぐさ(その1)[1999年06月20日(日)]


このお話は、私の父が『滝野 つたぐさ』(滝野町老人クラブ連合会 1993年9月発行) で発表したものです。
この文章での「私=父」としてお読み下さい。

 川下祭りと蛸売り

私の村は加古川本流と千鳥川の合流した土地にあり、鎮守の森の東側に川下神社が祭祀されています。 毎年七月二九日、三十日はこの夏祭りです。
その日は親類からお客が来るので酢梢を作って食べてもらうのが習慣になっております。 まつり前には蛸売りが各家を廻り注文を取っていきます。宵まつりの朝早く蛸が来るようになっているのです。

この蛸売りの道中の事です。
二見の浜から宗佐の厄神さんのある野村の坂まで漁師さんが天秤棒をかついで蛸を持って来ます。 こちらの村からからも二人の男の人が夜九時から村を出て目的地(野村の坂)へ着くのが夜中頃だという事です。 野村の坂で蛸を受け取って村へ着くのは夜明け前になります。

村も近くなったと思いいながら西垂水の”ころび坂”のところへ来ると、足元で「からん、ころん」と奈釜を転がすような 音がします。前へ行こうと思ってもなかなか行けないのです。
そこでこのじゃまをする物が居ると思って蛸の荷をおろし、石を投げました。

そうこうして村に着くと、持って帰った蛸が半分しかなかったのです。 ところで、こんな事が何回も起きたのです。
それからは、二人の内一人が棒切れで音を振り拂いながら帰るようになったと申します。

考えて見れば不思議な事だと思います。音の本体も明らかにならず誰言うとなくこの場所を”ころび坂” と言うようになりました。大正時代になってごく小さな自動三輪車(ミゼット)が出来て、浜から漁師さんが直送で 運ぶようになりました。
以後この難所も通る事なく、現在ではお話が残っているだけです。


 七福神の柱建て

このお話は、私がまだ小さい頃、実家の納屋を作る時に来てもらった方除けさん、 つまり今の地鎮祭を行う人の言われた話です。

 この法除けさんは、コンニチハの挨拶もなしに「出雲の神様が来た。」と言って来られます。 来られると肩の何物を下ろし、着ている色装束のほこりを落とし、それから私方の希望を聞いて から建物によい方位を決めて下さるのです。

良い方位が決まるとひょろたんづき「地固め」をはじめます。 これが終ると大工さんの木作りも進み建前になります。

建前には七福神が指図に来られるとのことです。
 最初は乾の隅の柱からです。
ここで詠われる節回しは、古からの播洲の馬魔旨成のような感じです。

『福の神は御当家様に入り参らせ給ひける。
まづ一本の柱は一のお宮。二本の柱は二宮神社。
三本の柱は榊の明神。
四本の柱は四天王よ。
五本の往は権現様。
六本の柱は六根清浄。
七本の杜は七帆の天神。
八本の柱は八犬宮よ。
九本の柱は熊野の権現。
十本の杜は十郎節。
凡そ三〇〇と六の神が天下らせ給ひてこの家を守り給ふ。
たたへてよろこぶ御代となる。』。

詠は以上で終りです。
私の父はこの時から七福神を崇拝し床の問に掛抽がかかっておりました。
古くなって見苦しいので新しく複製しこれを私がもらって大事に祭っております。
(付記)
柚の文がお解りのかたは、有りませんか。
また同じ物が他の家にありましたらお知らせ下さい。
この意味が知りたいのです。
お願いします。「kambe の父より」
画像は、拡大できます。(690kbytes)

つたえぐさ(その2)[1999年06月20日(日)]


このお話は、私の父が『滝野 つたぐさ』(滝野町老人クラブ連合会 1993年9月発行) で発表したものです。
この文章での「私=父」としてお読み下さい。

 山上講の送り事

 この話は私の小学校時代、つまり大正時代の初期の事です。
その頃播州地方に大人子供の別なく高熱の疫病が流行し大勢の人が亡くなりました。
 現在のように医療の施設もなく村全体が因っていたという事です。

救済の方法もなく神仏の加護より外に頼る方法が無いというので、昔から伝わる送り 事に講がまとまったという事です。

「送り事」に参加するのは、奈良県大峯山へ参拝し修業経験を積まれた山伏達です。 私の村は、昔から行者修行者が大勢あり、山上講の組織もありました。

「送り事」の行われたのは、大正九年の冬眞夜中のことでした。
行者は、白装束で、素足にわらじを履きます。
階級の高い先達さんは、その上に虎の皮や豹の皮で作った上衣をまといます。
そして、額に星形の魔除けを付け、右手に錫杖左手に御幣を持ち お題目をとなえて病家を廻ります。

『だんげいだんげい』『ろっこんしょうじょう』
『だんげいだんげい』『ろっこんしょうじょう』
『だんげいだんげい』『ろっこんしょうじょう』

山伏が来るという合図に法螺貝を吹きます。
法螺貝の音がきこえると病家では、戸や障子を開きます。
畳の上には、筵を敷いてあり、行者は土足のまま速く通り抜けます。

行者は、各病家を廻ると最後に加古川本流と千鳥川の合流した流の急な場所へ御幣を流 してから静かに村へかえります。

「送り事」のあとは、病人も全快し、病を再発することはなかったと伝えられています。
行事に使われた錫杖は今も大切に先達の家に残されています。

動かされる時・前編 [1999年07月03日(土)]


今日の話は、恐くありません。でも皆さんも何となく思い当たる事が有るお話を致します。 物事の始まる時は、何かの出来事と偶然重なる事が有ります。 私の職場には、昔はジンクスがありました。『家を建てると転勤する。』です。 このジンクスを聞いてすぐに、「家を建てた」、「転勤した」という例もありました。 バブル崩壊後や自分で転勤した後は、あまり聞かないですが。

Fright Cornerを作りはじめて、気づいた事があります。 私が不思議を体験し始めたのは、「カトリック信者」になってからです。 それ以前は、一度も不思議な事の経験は、有りませんでした。 それ以前は、不思議な事は全て計算できると思うほど、この方面には懐疑的な人間でした。

ここ8年間では、「鍵」、「自治会」「ねこ」の3つが重なると引越しをするようです。 だいたい怠け者の私は、何もしないで「ボーーー」としているのが好きです。 実行する目標は、持たないのです。 ただし、趣味に走った場合は、寝食忘れて没頭はします。でも、引越しや、近所付き会い等は、 人との関わりがあるため、殆ど逃げ腰です。 日常のペースが変わる事を、極端に嫌う性格です。いつもの事をいつものままに過ごす事が 一番幸せと思っています。

こんな私は、自分で引越ししよう等とは進んで思いません。よっぽどの事が無ければ、引越し 等は考えないのです。考える事そのものが、億劫になってしまいます。

それでも引越し必要なときは、なぜか「人との付き合い」や「突発事項」を処理しないと いけない状態に置かれてしまいます。この状態が「準備運動」となって居るようです。 もし、この準備運動が無かったら、私はもっとストレスを感じていたと思います。

ランニング・前編でお話した場所から引っ越したのは、今から8年前の7月30日です。 引越しは、1.5ヶ月前には、予定はありませんでした。

引越しの前は、3ヶ月前から入り口の鍵が故障を始めるのです。 会社に出勤するため家の戸締まりをしたとき、入り口の鍵がぬけなくなってしまいました。 何とか、ゴソゴソと油をさしたりして、どうにか戸締まりが出ました。 でも鍵は、1ヶ月に1回〜2回不調になりました。 それまでの8年間は、何らの故障も無かったのです。 最終的には、鍵を交換していました。

鍵の故障が始まる頃には、自治会の「班長」が廻ってきました。4月から6ヶ月の任期です。 初めての自治会参加でしたから、何か協力したいと考え「班長以外」の仕事も引き受けました。 町内会の「住宅地図」作成と「住民台帳」の更新です。 そのころ「液晶ワープロ」の画面が広いのが発売されたので、協力する事が出来ました。 それ以前の「住宅地図」と「住民台帳」は、手書きであったため更新に手間が掛かった様です。 私は、住宅地図完成の半月後に引っ越してしまいました。

最後の「ねこ」です。 自分では、猫を飼っていませんでした。 でも猫が屋根裏部屋で子供を出産していたようです。 ある日帰宅した私は、家の中から小猫の泣き声に気づきました。 床下や部屋の中にも居ません。 30分以上探した結果、台所の壁板の隙間に小猫が泣いていました。

場所と原因を確認するために、家の構造から、手洗いの天井から台所の天井裏に上れました。 天井裏には、5匹の真っ白い小猫がいました。 生後1週間程度です。 でも台所の天井裏からは、壁板の中の小猫までは、手が届きませんでした。

しかたなく、台所の壁板を1枚(1.8m×1m)をはずしてしまいました。 かわいそうな、小猫は何とか内部から取り出すことが出来ました。

このまま天井裏に居着いては、また猫災害になるため全ての小猫は、隣接する森の木の葉の上に移動してもらいました。 翌朝見に行くと、猫は居なかったので母猫が安全な場所に移したものと勝手に考えていました。

3つが重なったときに、ラニンニング・後編に書いた場所へ引越しました。
動かされる時・後編 [1999年07月03日(土)]


私は、昨年(1998年)2月28日に現在の場所へ引っ越してきました。 で、やはり「鍵」、「自治会」、「ねこ」は、有りました。

今回の場合、ねこは飼い猫です。私が初めて飼った動物でした。10月初旬から家の縁側で空を見ながら「ボーッ」としている 白猫です。あまりに痩せていたので、縁側でえさを与えている内に家の中招きいれるまでになりそのまま、4年半生活を ともにすねことになってしまいました。まだ家には、嫁さんは、居ましたが猫と入れ替わりに11月中旬からプイと実家に帰っ たっきり戻って来なくなりました。

ねこの名前は、「ソラ」です。縁側で空を「ボーーッ」と見ていたので名づけ ました。極めておとなしい猫でした。メス猫です。猫を飼って感じた事は、反応が人間の女性も「ネコの雌」もよく似て 優しさが伝わってきます。「ソラ」と仲良くなると、朝枕元に「ヘビ」や「ねずみ」や「鳥」を私の朝ご飯として置いてくれる ことでした。でもパタンパタン音がするので、目を覚ますと「ヘビ」が頭のところで”もがく”のをみたらギヤーー!!ですが。

ここでも引越し前には、「鍵」、「自治会」「ねこ」の3つが重なると引越しとなりました。

引越しの前は、3ヶ月前から入り口の鍵が故障を始めるのです。 嫁さんが出ていって、半年は同じ鍵をつけていましたが、安全のため鍵は新しく交換していました。 でも、引越しまえには、ヤッパリ鍵の故障が起こりました。 一番最初の鍵に戻したりしましたが、だめでした。最終的には、シリンダブロックを全て交換してしまいました。

今回の引越しは、12月30日に翌年の3月31日までに立ち退くよう指示されました。3ヶ月で引越しです。 ストレスつのりますよ。12月中旬には、韓国で帯状発疹になって体がまともに動かない状態での引越し準備でした。

鍵交換が終わった頃は、自治会の「仕事」が廻ってきました。 今回のは、「自治会規約」と「住宅地図の更新」パソコン作業です。 引越しまでには、新自治会長へのファイル引き渡しは、完了していました。

最後の「ねこ」です。 1998年1月5日夕方にソラは、蹲っていて食事もしません。 よく見ると、下腹部は、深い傷を負っていました。近所の猫に引っかかれたものと思われます。 猫をリュックにつめこんで、動物病院へ行きましたら6日より診療開始となっていました。 したかなく、そのまま猫に我慢してもらいました。

行き付けの病院は、遠かったので翌日500m先の病院で縫合手術をしてもらいました。 14針でした。腸膜まで傷付いてなかったのと温度が低いので化膿は免れたようです。

猫の出歩かないための静養箱をつくっていれました。そして出勤です。フレックス出勤なので助かり ました。帰宅したとき、猫がゴロゴロと喉を鳴らしたので一安心でした。

引越しに際して、ネコは友達がもらってくれました。少しは、安心して引越しできました。

引っ越しご1.5年経過しましたが最近は少し心配です。 家の鍵がよく開かなくなるのです。自治会の仕事も舞い込んで来し。 ネコの気配が無いので少しは、安心していますが。

貴方もこんな風に、偶然の一致は経験はありませんか。
tuyu・その1[1999年07月03日(土)]

6畳二間続きの部屋で寝ていると、コンコンと襖を叩く音が聞こえてきた。外は 激しく雨が降っている。家内と末娘は隣に寝ているし、長女と次女も部屋でそれ ぞれ寝ている筈だから以前にあった、雨蛙が入り込み襖に飛びついているのでは なかろうかと思った。

襖を開けると、何もいませんでした。ちょっと、首を傾げてもう一度床に入る と、また同じ用にコンコンコンと前より強く音がするのです。時計をみると、夜 中の2時半ぐらいです。まぁ、お化けや、幽霊の類がでてきても不思議ではない 時間帯です。

なんどか、音がする、襖を開けてみる、誰もいないの繰り返しです。さすがの私 も少し気味が悪いなと思って家内を起こしてしまいました。そして二人でじっく り音のでるほうを確認してさぐっていくと、玄関のドアを深夜ノックするものが いるのです。

何が飛び込んで来てもいい状態で思い切ってドアを開けました・・・・・・。我 が家の駄犬ダウリが雨が嫌で犬小屋にも入らず、柵を乗り越えて玄関のドアのと ころで寝ているではないですか。尾を時々ドアに痛いほどぶつけていたのです。 子犬の時から雨の日は玄関に入れていましたので入りたかったのでしょう。玄関 では吠えないように教えていたので忠実に守っていたのですね。無性にかわいく なり、思いっきり抱きしめてあげた梅雨の夜の出来事だった。

tuyu・その2[1999年07月03日(土)]

お祭りに参加するため、和太鼓の練習を山の中でしていたことがあります。初 め、小さな和太鼓を座って練習していたら、痔になってしまい、庶務にまわされ ました。

  毎日練習しますので、山中に機材(太鼓以外)はカバーを被せて置いてました。そ の日は練習中に雨が激しく降りだしましたので、急いで太鼓や機材をかたづけま した。庶務係りは最後に電気を消して帰らなければなりません。

  みんなが帰った後を確認して、車のヘッドライトを頼りに広場の電気を消しまし た。真っ暗な山中に車のライトの明かりだけでした。誰もいない山の中の広場は 不気味でした。

  広場を下っていったら、神社がありそこのカーブを曲がると幽霊が立っていたの です。私はアクセルを踏み込み逃げました。すると、どんどん追いかけてくるの です。心臓は波打ち、髪は逆立っていました。しかし、よ〜く見ると足があり、 「助けて、助けて」と聞こえてきました。私はブレーキをかけて、二三センチぐ らい窓を開けて、追いついてきた幽霊?みたいな女性に「どうしたんですか?」と 尋ねたら、「彼氏と喧嘩して、置いてきぼりにあったのです」と返事があったの で、怖かったけど最寄りの駅まで送りました。

  11時前後、一人、雨、神社、カーブ、長い髪の濡れた女性が暗がりに立っている ロケーション。どれも何かがでるシチュエーションにふさわしい要素でした。
わたしの神・前編 [1999年07月18日(日)]


Fright Cornerを作りはじめて、気づいた事があります。
私が不思議を体験し始めたのは、「カトリック信者」になってからです。
それ以前は、一度も不思議な事の経験は、有りませんでした。
それ以前は、不思議な事は全て計算できると思うほど、この方面には懐疑的な人間でした。

私は、10年間教会に通っていても、神様とは何かわからなかったのです。
私は、神を信じる為の最後の方法をとりました。神を試みたのです。
まず私が、神と契約するのです。そうすれば、神が解ると思ったのです。
私の気持ちは、『カトリックの洗礼を受け(信者になり)ますが、洗礼の次の週からは、教会には二度と来ません。 もし、神が居られるなら私との関わりを具体的にあらわして下さい。そうして私が教会へ戻るようにして下さい。』 でした。

私が昔考えていた宗教とは、人間の能力を超えた力が与えられることでした。
そのため、超能力を売り物ににする宗教団体に4年間信者としていました。
勢力拡大を主力にする宗教団体の信者であった事もあります。
でも、私の気持ちにピッタリは、来ませんでした。

超能力を売り物にする宗教団体の教えは、下記によります。
・お祈りをする対象(高さ10cmの宝塔)を大切にせよ。
・宝塔を破損、または傷つける事があれば、災いが降りかかる。
・毎日宝塔に祈りをしなさい。

でも、私は納得できませんでした。
・たかが作り物から災いが起きるのか。
・神が親なら信者は、子供。子供を災いに合わせる神は偽者だと考えました。
・試しに、宝塔の破損と宝塔内のお守りを破きました。
・新興宗教に神学がないのは、脅しを有利にするとも思いました。
結果、何の災いも、神が現れることもありませんでした。その宗教団体はすぐに 脱会しました。

自分が納得しない内に創価学会信者になった事もあります。
・自分が納得しないので、すぐに脱会を申し入れました。
・『一年間我慢すれば、仏が解る』と言われたので、1年待ちました。
・創価学会を止めにすると、「貴方は不幸になる」といわれた。でもこの 不幸になるという言い方は、『一番信用しないのです。』
1年経過した日、何もなかったので「正式に脱会」しました。

カトリック以外で信じる宗教は、天理教です。
4年前の、離婚を決意する前には、天理教の 「修養科」でYK(元嫁さん)と彼女のお母さんを預けて、親子関係の修復が 出来ないか確認を取りました。修養科には、精神的問題を持った人も行かれる ようです。友達が天理教の出版編集者だったので、信者でなくても「地域教会の 推薦」が取れる。推薦が取れたら、信者でなくても「修養科」で3ヵ月研修が 受けられるとのことでした。
でも、「修養科での研修」は、してもらえませんでした。 そのころは、天理教のハッピ姿をみると、ヒノキシンの心に涙がでました。

その離婚の時にカトリック教会の神父は、相談出来るような、主任司祭では有りませんでした。
山形県に出張し、地元の教会でミサを受けました。神父様の説教の中に『いま、奈良教会では、 主任司祭の排斥運動がおこっています。でもこれは、神の御心です。良い方向になるよう祈りましょう』でした。
奈良教会の、不具合は、全国的にしれわたっていました。
私は、この主任司祭に御聖堂前で呼び止められました。
『君の、奥さんは、幻聴や幻覚があるんだそうだね』。
ショックでしたね。この日本人神父様は、ミサの終わって人の出入りの多い場所で 人に聞かれるべきでない事を平気で聞いてくるのです。
私は、友達や結婚に関係した人には、『あの日本人主任司祭には、私の嫁について相談しないで欲しい』 と連絡しました。カトリックの神父様の中にも、変なのは居ます。
宗教的な離婚「結婚無効」手続きは、この主任司祭にお願いしましたが、彼が転任するまで処理は二年間も放置されていました。

こんな状態で貴方は、カトリックを信じるのですか?。
はい、信じています。なぜなら、私は、神を信じるのではなく、「神がいままでそこに、居られた事を感じた」ことが 有ったからです。

続きは、後編へ
わたしの神・後編 [1999年07月19日(月)]


カトリック(Catholic:普遍的の)教会は、ガンコな宗教です。奇跡を認定するには、 100年を経過してまだ奇跡が継続していないと認定しないのです。奇跡を起こす人が亡くなった後、お墓に詣でて恵みが得られ、 そして人々の信仰が100年続いてやっと認められます。
でも奇跡は、いつでもどこでも起きています。奇跡とは、モウゼの十戒の様に、海の水が開かれて人が歩ける現象ではないと思います。 神は、人間の自由意志を尊重されるのです。奇跡は、「有った」ということも「無かった」という事もできる場合に発生します。

喩え話1

復活祭の料理を6人分作った家に、友達が12人来たとします。みんながお腹一杯になって帰った場合、出された料理は6人分 なのに満腹したのです。知らない内に料理が2倍になっていることになります。料理が二倍になることは、だれも気づかないの です。終わってから冷静に考えると、納得行かないところに奇跡は起こっているとおもいます。

喩え話2
貧しい家の米びつは、3日分しかお米がはいっていなかったとします。毎日お米を利用して、一週間後まだ1日分残っていたら ここにも奇跡は有ったとおもいます。これらは、否定することも、肯定することも自由です。

私の場合

私の場合は、奇跡といえません。でも、落ち込んでいた私には、この偶然が心地よかったのです。 毎月1回は、偶然がおこるのです。1年も続けば、信じたくなります。でもその時どんなことが起こっていたのかは、殆ど記録に有りません。思い出すままにに列記したいとおもいます。

私の事1
カトリックの洗礼を受けた私は、教会へは一歩もちかずきませんでした。でも、結局は、2年以内に教会でミサを受けていました。 会社の寮で盗難がありました。同じ寮内の人間が、軽い気持ちで持っていっただけの内輪の事件でした。処分保留には、なりましたがその相手と どの様に接したら良いのか私は、悩みました。たまたま教会で親しいKさん(警察関係の仕事)に聴くのが良いと考え彼を訪問しました。 彼の家に相談しに行く内、教会のミサ行く様な状態になってしまいました。

私の事2
たまたまKさんは、「北海道足寄のバブテスト教会」で行われている「十次式健康普及会」の癒しによって腰痛を直してもらっていました。 癒しは、医師法に抵触しない範囲でできます。「相手の体に手を置く(昔から言う手当て)」 だけで直す方法です。彼にその癒しの場所(大阪にも出張所が有った)を紹介されて行き、私は背骨の曲がり(兄の話では、子供の頃牛の背中から 落ちた事故があったとか)を直してもらいました。やってもらったのは、背骨の両側を指で触るだけでした。『直ったからもう来なくて 良いです。』とだけいわれました。確かに、それ以後、姿勢はよくなりました。どうやって直ったのは、解りません。

私の事3
Kさん宅に出入りする内に、8年間人に貸さない家(8年前は家主が住んでいた)を私は、借りることができました。 その家は、Kさんも借りる交渉をしたが断られた家でした。たまたま家は、高校生が内部に入り、たばこを吸っていたのです。 家主さんは、ちょうど「住む人」を探していたのです。グッドタイミングです。借りた家は、「ランニング・前編」で住んでいた場所です。

私の事4
7月に引越しした私は、すぐ10月には、転勤となってしまいました。
でも東京でも不思議は、つづきました。
聖書と数冊の本だけ持参のため、何も持っていません。
朝のランニングでは、大ゴミの日に座卓を手に入れたり、ホーム炬燵を手に入れたりしました。 たまたま欲しいと思った翌日は、ランニングコースの地区で大ゴミ回収があったのです。何も知らなかった私には、 うれしいプレゼントでした。

祈り

その1
祈りは、スゴイナと感じた事が一度だけありました。母の1回目の手術のときです。手術は、場合によっては声が出なくなる 首の部分です。結構大変な手術と聞いていました。親孝行にと手術を待つ母の手を握って、暫く祈りました。 10分ほどすると彼女は、眠ってしまったのです。祈るまでは、結構緊張していましたが、約1時間程ぐっすり寝てしまいました。 手術前でしたが、まだ麻酔などはされていません。手術の案内が有り、母を起こすと笑顔で、手術室へ急いで飛んで行きました。 手術も成功し、声は正常にでました。祈りは、手術直前の病人の緊張を取ってしまうのですね。

その2
仏歯寺の午前5時開帳の時1987年は閉門

スリランカ旅行で私は、毎回ブッダの歯を収めてあるキャンディ市のお寺へ行きます。お寺の名前は、仏歯寺です。 5時30分から最初の朝の祈りが始まります。私は、5時にお寺を訪問し、約6時間座っています。朝の祈りは、1時間で終了しますが 延々と11時まですわっています。この間は、祈っています。祈り初めて30分すると、体が振動するのを感じます。 周波数にすると10〜16Hz程度です。自分の体が物理的に動いているのではないのです。でも気持ちの良い振動を感じるのです。
振動は、おおよそ2時間は、続きます。 朝の祈りの終わり頃には、歯を収めたパゴダの部屋の扉が開かれます。すると、暫く涙が止まらなくります。

1987年は、爆弾テロを警戒するため、お寺は入場できませんでした。地元の人もお寺の外から祈ります。 私も、外で1時間祈っていましたら、やはり体の振動と、涙が出てきました。感じるんですよ。 地元のおばあちゃんが、私の両手一杯にジャスミンの花を乗せて、『仏さんにお具えしなさい』と。地元の人の優しい気持ち が伝わってきて来てうれしくなりました。
5回行って、5回とも感じたバイブレーションです。
1998年7月には、塀の外に有ったトラックに仕掛けられた爆弾が破裂して、お寺は被害を受けたと聞いています。 仏歯寺は、スリランカ人に取って心の拠り所なのです。

幻覚

その1
東京で勤務しているときは、多摩プラーザ駅を6時30分頃に乗車します。季節によっては、ちょうど日の出の時間です。 関東平野の地平線から太陽が昇ってきます。たまたまその日の光の状態の加減だとおもいます。 日の出の部分は、雲はないが、30度上方向には、雲がありました。雲の切れ目がきれいだなと感じたその時、「聖母マリアの被昇天」を真実だと 感じてしまったのです。

その2
それは、結婚の結果を暗示する様な幻覚でした。最初の夜でした。眠りに付いていたすぐでした。嫁さんの胸元からは、黒い影のような ものが出てきました。まるで黒い布で作った狼の影絵のようでした。厚みは、無いのですが、筋肉質の狂暴さは感じられました。 そいつがゆっくりと、四つ足になると私の喉に噛み付いて来たのです。『ギャー!!』と言って飛びおきました。 飛び起きても当たりには、何も有りませんでした。あの怖さは、今でも覚えています。

お願い

私は、宗教を求める途上で不思議を体験しました。でも、これを目的で宗教を求める事はしないでくださいね。 前編で「超能力を売り物の宗教団体」は、オームの教祖も行っていたとかききました。
不思議な力は、自分の力だと思うと「あまり良い結果」にはなりません。 それは、最後のお話「神に預けられた力」でお話したいと思います。

私の新婚旅行「スリランカ」の飛行機は、往復とも乗客の90%は、オームの信者さんでした。彼らの雰囲気は、 宗教者にしては少しも暖かい雰囲気が無いのが可哀相だとおもいました。(1992年5月の話です。)
手紙・その1[1999年07月27日(火)]

貰って嬉しいものの一つに手紙があります。そこで、今夜は手紙のエピソードを 連続で書いてみようと思います。

中学1年の夏、帰宅すると一通の手紙が来ていた。差出人を見ると、見知らぬ女 性の名前だった。野郎ばかりのゴッツイ字ばかりに触れていたので、何故か新鮮 な感じがした。

机の上に、ほおりなげて、いかにも感心がないように家族の前では装い、遊びに 出かけてしまった。もちろん、遊んでいる間、その手紙の差し出し人とその内容 がずっと気になって何も手につかなかった。

いつものように帰宅する時間になり、家に帰っても机の手紙に目も触れず、いか にも関心ないように振る舞っていた。父や兄弟から、あの女はお前のなんなん な?と夕食の時質問されたが、「知らん、学校の女やろ」とこれまた素っ気ない 振りをした。

みんなが寝静まった頃、宿題が残っとるけんやらなとか、独り言を言いながら机 に座って初めてその手紙に触れた。小刀で封を切ると、知らん女から「突然手紙 だしてごめんなさい、友達から小学校の卒業アルバムを借りて、今誰でもいいか ら手紙を出してます。」と一発目から失礼な文章が出てきた。「こんやろうが、 ふざけちょるな」と思いながら次を読むと、「早く、5人の人に手紙をださん と、私が不幸になるけん」と書かれていました。要するに私は「不幸の手紙」を 受け取ったんです。

もう、夜中なのに私は頭に来て、叫びました。「バカヤロウ!」 そして、差し出し人を何とか探し当てたのは、中3の秋でした。 私は「不幸の手紙」の逆襲をはじめました。私の友達の名前で 一発目の不幸の手紙をだし、次々と友達の名前で毎週だしました。 毎回、彼女は私の5倍書く運命になったと思います。 その後の彼女の事は知りません。
手紙・その2[1999年07月27日(火)]

貰って嬉しくない手紙もあると「不幸の手紙」で知りました。それが、最近どこ からともなく、郵政省の者ですが、こ んな遊びを考えましたという内容が書かれた手紙を貰った。

要するにマルチレターというやつである。7人の名前を書いて、私の名前を一番 最後に書き加えると、一番最初の人間の名前を消していき、一番、3番、5番目 にお金を送るという遊びだ。私達はお金ではなく、郵便小切手(1000円) だった。勿論、頭が良さそうな輩が考えてやるゲームだ。

早速、友人に相談して、そっくりそのまま自分達用に作り替えた。7人全部仲間 の名前と住所を書き、九州全部の 友人に流してみた。それから、毎日10枚、20枚と入ってきた。勿論現金化して寄 付したり、パーティでの酒やお肉に 変わった。総額はノーコメントです。でも、短期間でアッという間に稼ぎまし た。

これを更に真似た人がいた。しかし、途中で警察の介入が会った。それは未成年 者が入ったからだ。柳の下に泥鰌は何匹もいないんだな。

手紙というもの、遠くに離れている知人や親族、友達、恋人に近況を報せたりす るのだが、今は、そんなかったるい事 はしない、携帯、ピッチ一発のメールガンガンって感じです。相手に思いを馳せ ながらという時代は終焉を向かえて いるのではなかろうか、現代はもっと、直截にそしてより感情的に、感性的にコ ミュニケをする時代になっています。

だから、こんな手紙の使い方が、のこのこと現れてくるのでは。
人面魚 ・前編[1999年08月10日(火)]

Fright Cornerを作りはじめて、気づいた事があります。
7月初旬には、枯渇するとおもっていた、Fright Cornerがまだ続いています。
不思議は、自分から掲載してくれとあつまってきました。
今回は、むかし懐かしい「人面魚」の話題です。

人面魚を見つけたのは、本年の7月上旬です。
場所は、ランニング・前編でお話した、池にです。
通勤では、朝7時頃に池の堤を毎日歩いていますので、鯉が多数いるのには気づいていました。
近所の方が、池の鯉にパン屑を放っているのを7時を過ぎた頃に見る事がありました。
何気なく鯉の群れを目で追っていると「人面魚」がいました。

写真の魚が、人面に見えたら幸いです。
写真をクリックすると、拡大表示します。

後編には、yahoo検索で人面魚検索した結果を入れました。
人面魚 ・後編[1999年08月10日(火)]
yahooでの「人面魚」検索結果です。

熊日ニュース
<地域のニュース 午後−8>      1998年(平成10年)3月8日(月)
人面魚ならぬ“犬面魚”にギョッ  下益城郡富合町田尻の平江清さん(76)が、近くの川で動物の顔に似た模様が頭にあるコイ....
http://www.kumanichi.co.jp/dnews/990308/kiji2.8.html

中庭
中庭 中庭には、安らぎの噴水と鯉の泳ぐ池があります。 鯉のなかには人面魚?もいます。 中庭の鯉はとても人なつっこく近くを通りかかるとすぐによってきます。 1年生 2年生 3年生 4年生 5年生 6年生 ひ....
http://www.hyogo-edu.yashiro.hyogo.jp/~nakakita-es/nakaniwa.html

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善宝寺
善宝寺  「龍を見た男」  善宝寺の「貝喰の池」には龍神が棲む、という伝説があり、海の守り神として信仰を集めてきた。 先年「人面魚」で世間を騒がしたが、この池にはいろいろ不思議もあるようだ。 突如雷....
http://www.city.tsuruoka.yamagata.jp/Tsuruoka/fujisawa/zenpoji.html


lycos japanの「人面魚」検索結果

funnyroom
変なモノの部屋其の壱「人面魚」 人面魚  列車の待ち合わせ時間、ヒマなのでJR富山駅構内をぶらぶらしていたら、い鯉の広場なる安易なネーミングの一角がありました。その池で飼われているのがこの
http://www.asahi-net.or.jp/~xj8s-ab/others/funnyroom.htm
神に預けられた力・前編 [1999年08月14日(土)]


ここに書く文章は、私(kambe)の責任において、記載致します。 全ては、私と関係のあった、根拠を明確にする事ができる内容です。

人を癒す力
難しい話では、ありません。
転んで泣いている子供には、打ち付けた膝小僧を撫ぜて『いたいの・痛いの飛んでケー』です。
子供は、安心できる人によって「心の不安」が癒されます。
痛い膝は、同時に痛みは、少なくなっているはずです。

天理教のよろず病院(奈良県天理市)には、天理教の『おさずけ』をする人や、カトリックの神父様が祈りのために (病気を癒すために)訪問する事を認可している病院です。
看護婦さんは、患者さんへの薬を渡すとき『この薬によって、癒されますように』と祈ってから 渡すのが習慣になっているようです。

病気は、祈りによって癒されます。
私も「祈る事」で人を癒すことがあります。
でも、私を信じた場合にのみ可能みたいです。
私の場合は、背骨の曲がりによる、腰痛、整理痛や肩凝り、四十肩の痛みを除く事です。
相手の首筋に手を置くだけで、相手が癒されます。

癒しは、自身の力によるとは考えてはいません。
癒す力があると思った場合、エネルギーが流れ出て、3日間体調を崩す場合があります。
癒す場合、何も考えません。考えるとすれば、自分の体がエネルギーの通り道であると想像するだけです。
エネルギーは、どこから来るのか解りませんが、水道のパイプと思わないと身が持ちません。

癒しは、全ての人が持っている能力です。
兄も癒しが、できました。
彼に一つだけ注意点しました。
「自分が直すと思わないで下さい。体調を崩します。」です。
兄は、私から聞いた方法で、職場の人を癒しました。 「癒すのは自分だと意識してしまい、体調は、3日程優れなかった」とのこと。
これは、母の亡くなった12年前のことです。 それ以後癒す事は、しなくなったようです。私も同様です。
現在の私の直すのは、パソコンのみです。

癒しを16年間続けている人がいます。
Kさん(エレベータの話の人の旦那)です。
彼の特徴は、体を病んでいる人の「家庭の愚痴」を聞くことが平気で出来ます。
彼によると、『心の悩みを分かち合うと、癒すのは、簡単です。 信じない人は、いくら努力しても出来ません。』とのこと。 彼は、悩みを聴くけれど、自分の心にいつまでも止めたりしません。
また自分が癒している気持ちは、マルッキリ持っていません。
聞き流しが天才的なため、心も体も癒す事ができ、また16年間も続けられるのでしょう。
10年前からは、場所をカトリック教会の一室に移し、奉仕活動として続けています。

同じ能力を持っていても、その人の資質によって、継続できる場合と、出来ない場合があるのです。

癒しの出来る人の条件は、自分の時間を持てる人です。 癒しの場所に病人が列をなしていても、「お昼ですから」と自分の時間を大切にできる事が条件です。

選ばれた人
カトリックの神父様やシスターは、生まれながらの要素が強いようです。
神父やシスターに成るには、2回も3回も神に仕える事を確認する式があります。
途中で適正で無いと自分が感じた場合は、止めることが出来ます。
私の知り合いにも、修道院に入ってから止めた人が何人もいます。

神父になっても「42歳」の試練があり、42歳で神父を止める人は、私の教会でもありました。
神父が神父を続けられるのは、神様の賜物と思います。
ベル神父の例ですが、彼が神父なのは、生まれる前から決まっていたようです。
彼の兄弟姉妹は、女性ばかりでした。
彼のお母さんは、『男の子を下さい。男の子が生まれたら神様に差し上げます。』と祈ったそうです。
その結果、彼が誕生し、神父になったと話していました。
彼は、ストレートに神父になった訳でなく、グラーブ地方の女性と恋仲だったこともあります。 色々な事があっても、最終的に神父になっています。

いつも優しい神父様でも出会えない日が有ります。
オヘール神父は、12月31日は、黙想の日と決めておられます。
教会のある部屋に入ったっきり、一日祈っておられます。
祈る日があるから、神父を続けてこれると思います。

不思議な話の続きは、後編を見てください。
神に預けられた力・後編 [1999年08月14日(月)]


教会は、人によって見方が異なります。
結婚式場等のロマンテイックな場所との見方もあります。
信者でも、宗教的な事柄(例:聖霊が居る)と思う人は、極わずかです。

教会の図書館には、聖霊による奇跡の本が多くあります。
ローマ教皇が聖霊の働きとして認めるものは、100年間の検証の結果です。
本から得られるのは、100年以前の話ばかりです。
だが、いまでも日常的に不思議なことは、世界中で現れています。
ただ、カトリック教会として公式に認められていない(100年経っていない)だけです。

異言

私は、異言が語れます。但し、言葉の意味は、分かりません。

異言:新約聖書−使徒行伝−第2章
五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然激しい風が吹いてきたよ うな音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
異言は、カトリック聖霊よる刷新の祈りの会セミナー(東京四谷/上智大学)で 1988年に授けられました。
この祈りの会は、奈良市富見ケ丘カトリック教会のトニーグリーン神父様(1994年11月帰天)が参加しておられたので、安心して 参加しました。
この祈りの会参加に対しては、所属していた鷺沼教会(神奈川県)の主任司祭は、『何が正しいか気を付けないといけません。』 との注意を受けました。
今の私は、この祈りの会からは、離れています。
見学されたい方は、ホームページで確認の上、不思議の実体験 として参考にされてはと考えます。

マリア様のメッセージ

マリア様のメッセージには、フランシス・ゴッピ神父による「アリア運動」と「マリア様の出現を伝える」2つがあります。 正しい教え/正しくない教えかは、御自分で判断してください。

「マリア運動」
私が知っているのは、「アリア運動」の方です。マリア様のメッセージを集めた本を12年前に知人から頂きました。
私の元結婚相手は、別の「アリア運動」に狂信的な人の紹介によります。私の結婚中のゴタゴタ解決には、「マリア運動」 は、役に立たなかったようです。
聖霊の導きと言いながら、教会内部ではあまり好印象をもたれていませんです。

「マリア様の出現」
世界的には、ファチマが有名です。
私は、この類の情報の入手は、出来ていません。

これらの運動は、色々な意見とホームページがあります。
私は、ホームページ内容は、把握しておりませんので興味のある方は、自己責任で見て下さい。
yahoo検索で、「マリア」を検索したら極めて危険と思われるページ(マリア様を題材にしているが 元々悪魔崇拝であったグループ)もありました。
・聖母マリアのメッセージ集
・フランシス・ゴッピ神父に対する意見のページ
・みこころネット

自分が悩み、苦しんでいるときは、どうしても超人的な解決方法を求めてしまいます。
義姉も更年期障害で苦しんでいたとき、「チャクラ」の活性状態を調べる病院へ行きたいと相談されました。
彼女は、まじめに「近代医学でチャクラ」を診断すると考えたようです。
チャクラは、インドヨーガの用語で、近代医学では未知の世界であり、インチキ宗教まがいだから、行くのを 反対しました。

超人的な救いは、劇薬と思ってください。先達や相談者の居ない人は、手を出さない方が良いと判断します。
一番良いのは、自分の個性とピッタリくる神父様(お寺さん等)を見つけることです。
個性ある宗教者は、自分独特の方法で神や仏を伝えようと考えています。

世の中には、鉄工所で働く神父様(労働司祭)もいます。労働司祭は、5月に亡きベルさんを訪ねてきました。
今日(8月14日)も、一人来られました。
神父であっても、下町のオッチャン(外国人)です。
参考に労働司祭のホームページとバチカンのポームページを下記にリンクしておきます。
何故、バチカン?
たまに製作者のウイットでページ最後にアップルマークが付いているから。
・バチカンホームページ
・モップ(労働司祭のホームページ・日本語有り)
不思議な出来事を求める場合は、出来事が神から来ているのか、悪霊によるのかの冷静に判断しましょう
素人には、区別は、つきません。
エクソシストのお払いは、今でもカトリックに残っています。
悪魔払いの話は、ローマ法王庁の元スタップが編集した本「悪魔の人質」が家の何処かにまだ有ります。
この本は、Kさんの奥さんが怖がって最後まで読まなかったのです。
不思議な出来事は、興味を持つよりも、「障らぬ神に祟り無し」で避けて通る方をお勧めします。
事故・前編[1999年08月20日(金)]

トンネルを抜けると一人足りなかった

大分という所はとにかく山が多い。陸の孤島と言われる所以もこの辺りが原因かも知れない。
山が多い所に道を造ると、トンネルを掘らざるを得ない。だからトンネルが多い所だ。
青洞門も然りだ。今夜は友人の学友がトンネルで経験した物語を書いてみよう。

友人4人で車に乗って、大分と臼杵の旧いトンネルを走っていた。
そのトンネルは女性の幽霊が現れるという噂があるトンネルでした。

酔った意気おいで、よし幽霊退治だと、飲酒運転をしながらそのトンネルを走っていたのです。
中程で、ドンドンとトンネルの上から何かが落ちて来ました。
車から4人は出て、外を調べたが何も異常はありませんでした。

運転をしていた友人がハンドルを握った瞬間、髪が乱れた女性がフロントガラスに 上から吊り下げらている感じで見えたそうです。
彼は一目散に逃げだしました。 トンネルを出たときに、一人友人がいないことに気がついたそうです。

恐かったそうですが、もう一度ゆっくり現場に戻ったそうです。そして真っ暗な 中で置き去りにされた彼は、口から泡を吐きながら座っていたそうです。

その後、その置き去りされた彼が悪戯で車のボンネットの上で逆立ちして運転していた 友人を脅した事が判明しましたが、時すでに遅く、車から振り落とされた彼は頭を強く 打ったのと、取り残された恐怖でその後、何年かその手の病院に入院していたそうです。
事故・後編[1999年08月20日(金)]

火の玉を見た直後、脳味噌が飛んで来た

あれは、私が高三の夏休みの事だった。受験勉強の気晴らしにと言って、兄が戸畑の海岸に ドライブしに行った。友人を二人誘って夜の海岸を散歩しての帰り道の出来事だった。

車を駐車してあるところまで、海岸から2〜3分歩いてかかる、道の両脇は長屋のような 家屋が並んでいた。すると、右屋根の上から火の玉が一個ゆっくりと左の屋根の上へと 越えていきました。

皆は、一瞬解らなかったみたいです。そして「今の火の玉じゃなかったな」と言うと、 うわぁ〜と三人は走り出しました。残された私は本当に恐かったです。

帰る途中お腹が空いた私達は、うどん屋に寄ってうどんを食べました。うどん屋を丁度 出たとき、大型トラックが自転車に乗った警察官を巻き込んでしまいました。 しかも、目と鼻の先での事故でした。ドン、ギィー、パク〜ン、プチっていう音がした瞬間、 何か塊のようなものが私達の眼前に落ちて来ました。

生まれて初めてみた脳味噌でした。脳はピンク色に真っ赤な血で赤く染まっていました。 4人ともフリーズ状態になり、今食べたうどんが口の中から出てきて、その場に吐いて しまいました。

それから、肉がおかずに出てくるたびに、気持ち悪くなって食べれない時期がありました。
家庭の怪・全編[1999年08月20日(金)]

「フライトコーナー」も今回をもって最後になりました。eddieのトキドキ日記 で「光る謎の物体」を紹介した所、Kambeさんより共感のお言葉を戴き、合作で 怪奇につながる経験を期間限定で掲載してみようとなったのです。
おかげさまで、何とか最後まで書き終える事ができましたので、今回はこれで区切りをつ け、また新たな企画を練れればとおもっております。
最後にKambe氏と共に皆様に感謝とすると共に、最後までおつきあいしていただきましてありがとうございます。 では私の最後の作品「家族の怪」を紹介致します。
家族・・・不思議な縁で結ばれた組織。その縁の存在とは、それは各人の行動の 中から起こる共通行動・・・それを怪と私は定義したい。

父の怪

子供の頃から、酒癖が悪く、グラマンから死ぬ目にあわされ、若くして結婚して 小児麻痺の子供が産まれ、死ぬまで運命を背負う。ギャンブルで家一軒分損を し、家を払い終わると、身体にガタがきてしまっている。

母の怪
身体の弱い子供の世話と、酒癖の悪い旦那の世話で一生をおくってし まった。

「兄の怪」

学生時代は模範学生と謳われ、社会人になると極道社会人となる。親 友から裏切られ、不信の人となる。なによりもお金を愛する人となる・・・現在 進行形。

弟の怪

家族でキャンプの最中に、やくざがやってきた。眉なし、小指少し欠 けている。 片割れもスキンヘッド、見るからにどう猛なタイプ。その横にもっと獰猛な男 が・・・ 弟だった。やくざも右翼もお友達だそうだ。一歩間違っていたら危険な人物だっ たかも。

妻の怪

新婚一週間、ずっと昼寝ばかりしていた。眠り病なのかと疑った。そ の後原因が わかった。私の鼾で眠れなかったそうだ。我慢強い人だ。信念を貫くために親と も縁をきったぐらいだから。

子供達の怪

毎日がうるさく、冒険だ。気怠そうなアンニュイな雰囲気が子猫 のようだ。

ダウリの怪

風、雨、雷、稲妻、花火・・・吠えるな!眠れん。弱虫犬! でも かわいい。

eddieの怪

最後にeddieの怪・・・結論がでない人生をeddieなりに調理したい。 夢、現実、独立、忍耐、精進、余裕、結婚、家庭、団欒、拡大、発展、再拡大、 暗雲、陰謀、暴露、分裂、不信、再出発、出逢い、マック 友達、新事業・・・ eddieの怪はeddieの生き方そのものです。 どこまで怪を書けるか、途中経過報 告でした。

「まとめの怪」 あなた達の怪はどんな怪?
ここにも同類・前編 [1999年08月20日(日)]


これは、8月17日から20日に仕入れた、出張先で技術者と話した内容です。
ここにも同じ悩みを持った人間がいました。

20代の二人の技術者(Nさん、Yさん(女性))と、実験室(出張先の工場)で話たことは、技術的な内容と 幽霊の話です。
世間さまから考えると、激しい落差です。
実験と理論を仕事にする技術者でも幽霊は見ます。
出張先の技術者二人は、幽霊の経験がありました。
話を切り出したのは、ただ雰囲気からです。相手が同類と感じるものがありました。 二人の内、男性のNさんの方が霊感が強いようです。

Nさんの話
幽霊を見るとか、金縛りは、寝入りばなのレム睡眠期間に起こる説がありますが、そんな生易しくは ないです。
私などは、瞬間に金縛りにあいました。
仕事から帰って玄関を開けた途端に金縛りにあいました。 ごく最近です。
玄関を開けたら、女性が立っていたのです。
極めて鮮明に見えました。
他所の人でした。顔に見覚えはありません。
ただ彼女の目線とあって食うか食われるかの葛藤がはじまりました。
目をそらしたらヤバイと心は警告をだしています。
彼女は、鮮明に見えますが、家の中が透けて見えていますから、この世の人ではありません。
約一時間の間金縛りでした。こういう時に限って家族は、気づいてくれないのです。
一時間睨み合っていたら、その人は薄れて見えなくなりました。
消えると、体が動くようになりました。

この実験室でも時々みる事があります。
また自宅でも、ずっと昔に無くなった父が家の中をウロウロしているのに出会うこともあります。

Yさんの話
これは、私が初めて金縛りを経験した話です。
ほんの数年前なんです。
おじいさんのお葬式時は、妹と二階でねていました。
寝ていて、体がまったく動かなくなったのです。
わーー
困った状態と妹か隣に寝ているのは、感じましたから 眠ってはいませんでした。

恐い初めての体験を妹に話しました。
すると妹は「その時間帯は、おじさんが家族に話し掛ける夢をみていました。」
おじいさんの話は、「家族の事を思っての話でした。」

NさんにFright Corner の私の家族の経験を話したら『僕にとっては、日常です。』と。
ここにも同類・後編 [1999年08月20日(金)]


自身の事は霊視出来ない

Nさんは、相手の過去が霊視できるそうです。
未来は、薄ぼんやりとですが確認はできるそうです。
悩む人を霊視した場合は、その原因となるトラウマなどの過去の重い内容が相手の背景にみえるとか。

ところが自分自身の事は、まるで霊視が出来ないのです。
だから普段、霊視して状況が事前に掴めるので冷静に対処が可能です。
しかし自身の事は、他人の事と違って皆目検討が付きません。
普段冷静である分、自分のことでは先が感じられないのでオタオタしてしまいます。
その結果、好きな女性が居ても愛が告白出来ない自分を情けないと思っているようです。

霊的内容は、自身の感情が関わるとまるで効き目が無くなるようです。
16年間も癒しの奉仕をしているKさんも、自分の奥さんの腰痛や疲労感を取り除けないのです。
Kさんの奥さんを癒すのは、小さな力しかない私(kambe)の方がうまくゆくのです。
不思議ですね。

でも自身の事で悩むのは、この世に生まれた人は、平等に色々な事に心悩ませては、挑戦できるのです。
普通の人が、自身の資質を高める様に、霊能力者も同様に心の成長ができる事の証です。
良い事だと、私は思います。

同時に話を聞いていたYさんは、彼と長らく仕事をしていたが彼の霊能力がある事は初めて聴くらしい。
私からは、Yさんへお願いをしました。
1.この事は、彼が結婚しても奥さんに話さない内容かもしれません。
2.彼にとっては、家族を守る為、友人にも話さない内容です。
3.職場で話した場合、彼は仕事意外での人助けのため、仕事が出来なくなり、職を失います。

霊能力のある人は、その能力ゆえに普通の人以上の苦労が人生について回るようです。