| 1、金堂・東の間の本尊「薬師如来坐像」、国宝,銅造、像高六二、一cm。推古十五年(六〇七)、又は白鳳時代の作ともいわれている。 2、金堂壁画・第十号壁、「薬師浄土図」。 3、大講堂の本尊「薬師如来坐像」、国宝、木造、像高二四七、二cm。藤原時代の初期九九〇年、正暦元年頃の作。脇待(きょうじ)の「日光菩薩坐像(左)」と「月光菩薩坐像(右)」の年代 も本尊同様である。 4、西円堂(さいえんどう)の本尊「薬師如来坐像」、国宝、通称・峰の薬師と呼ばれる、脱乾漆造、像高二六四cm。天平時代の後期の作と推定されている。 5、西円堂の薬師如来坐像の「胎内仏の薬師如来坐像」、重文、伝・峰の薬師胎内仏。天平時代の 作。銅造、像高一五、四cm。 6、金堂の中の間の本尊・釈迦如来坐像(国宝・銅造、像高八七、五cm、止利(とり、鳥)派の代 表作。飛鳥彫刻の特徴を発揮している。この本尊の左右両脇待菩薩。即ち寺伝では、「薬王(やくおう)菩薩」と「薬上(やくじょう)菩薩」とに名付けているが釈迦像の脇待としては例がないくらい珍らしいとされている。 7、金堂の薬師如来・脇待、「伝・日光菩薩立像」、重文、銅造、鍍金、像高五三、七cm。飛鳥時代の作。但し、宝冠正面に観音菩薩の化仏(けぶつ)を表わすので観音菩薩像とされている。 8、7と同じ脇待、「伝・月光菩薩立像」、重文、銅造、鍍金、像高五四、五cm。飛鳥時代の作。これも7のよう観音像とされている。 9、食堂中央の仏壇上にある本尊の「薬師如来坐像」、塑像、破損で後世の修理多く制作年代の推定はむつかしい。台座は鎌倉時代か。脇待は、梵天・帝釈の立像で塑像(そぞう)、天平初期の制作か。薬師如来に梵天・帝釈の脇待は例も少ない。 10、食堂(じきどう)の本尊・薬師如来像の両脇に、次の日光、月光が安置されていたといわれるが、中尊と制作時期が異なるため本来一具のものであったとはいえないとされている。「伝・日光菩薩」、重文、木造漆箔、像高八〇、三cm。飛鳥時代。 「伝・月光菩薩」、重文、木造漆箔、像高七七、九cm。飛鳥時代。 いづれも「六観音」と呼ばれている木彫像の内の二体で、樟(くすりのき)の彫像で七世紀の 作例に共通する。 11、南倉の「薬師如来坐像」、藤原時代。 12、伝法堂の西の門の「薬師如来坐像」、天平様ではあるが、平安初期か。 以上 (法隆寺には、他にも薬師さま関連のある仏様などは、まだまだおられるが、一応この程度の紹介にとどめよう。) 私見と解説 金堂の四天王像(持国天、増長天、広目天、多聞天)の、多聞天像の光背に「薬師徳保(くすし のとくほ)」を上として鉄師と二人で作ったとある。 薬師の姓を、はじめて賜えられたのは雄 畧朝(四七八〜五一〇頃)に百済からきた、才人(てひと)の徳来(とくらい)の五世の孫と称す る恵日(えにち)である。 彼は遺随留学生で「随」で医術を学び、これがため「薬師(くすし)の 姓」を与えられたと伝えられ、再度、白雉五年(六五四)に遺唐副使となって中国へ渡っている。 前出の薬師徳保は、これらの系統の人で美術工芸や医術にも秀いでた仏師兼薬師の指導者(主任) であったと、私は推測している。 私見としては、法隆寺の仏像の制作には、私達・薬剤師の先輩が大いに関与していたのである。 「法隆寺は薬師のお寺」であったという、私の根拠は、このように薬師如来さまが何体もおられるからである。 それは前記のように薬師も仏像などの制作に関与しているからである。 また、創建 の主旨そのものが用命帝の病気回復を願って本尊として薬師如来を祀ることにあったからでも判ることである。 薬師信仰が朝野を含めて、日本人に人気(期待と願望)があったという証明である。 それは、人間の本性そのものが、生命の大切さ、健康で生活を営む大切さ、を願望しているから である。 国の政策としても医療福祉の大切さ、これらが千三百余年を通じて証明される所である。 医療の一端を担う薬剤師として、その職能の尊厳性を、もっともっと強く認識し、生涯を通じ研鑽 し、その責務を「心・身・技」の三位一体で具現せねばならない。 それが、社会に対する「薬剤師 の誓い」であろう。 今回の資料調査で法隆寺に何回も足を運ぶ中で、「法隆寺の薬師如来さま」は、 私にそう問いかけているように感應した。 このことを、私は、「全世界の薬剤師」に伝えることが、 私の責任だと痛感している。 文筆者 (社)奈良県薬剤師会 会長 喜 多 稔 |
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